ホツマツタヱ全文紹介! 天の巻 ④ 天照神(ひのかみアマテル)の瑞御名(みずみな)のアヤ 原文ひらがなと漢字読み。

ホツマツタヱとアワのうた

イサナギ、イサナミはハラミ山に登り東方に向かって百拝(ひゃくはい)を重ねていました。両神はこの後、ハラミ山頂の子代池(このしろいけ)の池水で左眼を洗い日霊に祈り、右眼を洗って月霊に祈り、イサナギはシコリドメ(石凝姥)が鋳造して君に捧げた真澄鏡(ますみのかがみ)を二枚取り出し、それぞれ日と月にたとえ両手に捧げ持って神の出現を乞い願いました。

アマテル神の誕生と即位

日の神の瑞御名の文

  

  もろかみの かみはかりなす    諸守の       守議なす

  たかまにて おおものぬしか    高間殿にて     大物主が

  ひのかみの ゐみなのあやお    日の神(アマテル)の 齋名(いみな)の謂(ゆえ)を

  もろにとふ おおやますみの    諸(神)に問ふ   オオヤマスミの

  こたえには            応えには      

  みおやのしるす うたにあり    「上祖の記す     歌にあり」

  もろかみこえは やますみか    諸守乞えば     ヤマスミみが

  つつしみいわく          謹み曰く

 

  むかしこの            昔この

  クニトコタチの やくたりこ     国常立の      八下り子

  きくさおつとの ほつまくに     木草を苞の     ホツマ国

  ひかしはるかに なみたかく     東遥かに      熟み高く

  たちのほるひの ひたかみや     立ち上る日の    日高見や                                 

  たかみむすひと くにすへて     タカミムスビと   国統べて

  とこよのはなお はらみやま      常世の木(橘)を   ハラミ山(に植えて)

    かくやまとなす         橘山となす

  

  ゐもつきの まさかきもうゑ    いも(五百)継ぎの  真榊も植え

  よようけて            代々受けて 

  をさむゐつよの みむすひの    治む五代の     実結びの

  ゐみなたまきね          斎名タマキネ

  もとあけお            元明けを

  うつすたかまに あめみをや    写す高間に     皇祖                                                 

  もともとあなみ みそふかみ    元々(アモト神)天並(アナミ神) 三十二神(ミソフ神)

  まつれはたみの とよけかみ    纏れば “廻みの   トヨケ神

  

  ひかしのきみと みちうけて    東の君と      道受けて

  おおなゑことも まさかきの    大嘗事も      真榊の

    トコヨ尊の皇統を受け

  むよろにつきて うゑつきは    六万に継ぎて    植え継ぎは

  としすてに            年既に

  もふそよろなち ゐもふそに    百二十万七千    五百二十に

   ( ほつまの暦は、榊の成長で見る。:21鈴125枝、1枝60年、1000枝で1鈴、1鈴6万年     合計 120万7520年 )

  かんかみれとも かんまこの    「鑑みれども     尊孫の

  ちゐもうしある そのなかに    千五百氏ある     その中に

  あめのみちゑて ひとくさの    陽陰の道 得て    人草の

  なけきおやわす かみあらす    嘆きを和す      尊あらず

  あらねはみちも つきんかと    あらねば道も     尽きんか」 と

  なけくとよけの はらみやま    嘆くトヨケ(神)の  ハラミ山

  のほりてみれと          登りて見れど

  やしまなる            「八洲なる  

  よろますたみも うくめきて     よろます民も     蠢きて

  みちならえぬも ことわりと    道習えぬも      理」 と

  やはりなけきて ひたかみの     やはり嘆きて     日高見の

  みやにかえれは いさなみの    宮に帰れば      イサナミの

  ちちにもふして よつきこも    父(トヨケ神)に申して 「代嗣子も

  かなとおほせは うらなひて    「(代嗣子も)がな」 と思せば 占いて

               

  つきかつらきの いとりやま    尽桂来の      齋鳥山  

  よつきやしろの いろしては    代継ぎ社の     色垂は

  あめのみおやに いのらんと    天皇祖に      祈らんと

  とよけみつから みそきして    ヨケ自ら      禊して

  やちくらちきり ぬきんつる    八千座(回)契り  抜きんつる 

  いつちかみのり          厳霊神祈り

 

  とほりてそ            通りてぞ

  あめのみをやの まなこより    アメノミヲヤの   眼より

  もるるひつきと あもとかみ    漏るる日月と    天元神

  みそふのかみの まもるゆえ    三十二の神の    守る故

  こたねなること おほゑます    子種成ること    覚えます

  

  このころきみは はらみやま    この頃君は     ハラミ山

  のほりていわく もろともに    登りて曰く     「もろ共に

  くにくにめくり たみおたし    国々巡幸り      民を治し 

  ひめみこうめと つきこなく    姫御子生めど     嗣子なく

  たのしなきとて            楽しなき」 とて

 

  いけみつに            池水に (子代池)

  たのめおあらひ ひるにのり    左の目を洗ひ    日霊(太陽神霊)に祈り

  かのめおあらひ つきにのり    右の目を洗ひ    月(太陰神霊)に祈り

  いしこりとめか ますかかみ    イシコリトメが   マス鏡

  いつくりすすむいさなきは     鋳造り進む     イサナキは

  あめおしらする うつのこお    陽陰を領らする   現の子を

  うまんおもひの ますかかみ    生まん思ひの    マス鏡

  まてにひるつき なつらえて    真手に日月      擬らえて 

  かみなりいてん ことおこひ    神生り出でん    事を乞ひ

  くひめくるまに あくりこふ    首回る間に     あくり乞ふ

   

  かくひおつみて みたまいる    かく日を積みて   神霊入る

  かとはちりけの あやところ    門は身柱の     結所

  おこなひちかに なるころは    行ひ千日に     なる頃は

  しらはきそみて さくらいろ    白脛染みて     桜色

    

  あるひをかみか をゑとへは    ある日男が    汚穢問えば

  ひめのこたえは つきのをえ    姫の答えは     「月の汚穢

  なかれととまり みかののち    流れ止まり     三日の後

  みのきよけれは ひまちすと    身の清ければ    日待ちす」 と

  をかみもゑみて もろともに    男尊も笑みて    もろ共に

  おかむひのわの とひくたり    拝む日輪の     飛び下り

  ふたかみのまえ おちととむ    二尊の前      落ち留む

  おもわすいたく ゆめここち    思わず抱く     夢心地

  さめてうるほひ こころよく    覚めて潤ひ     快く

  みやにかえれは やますみか    宮に帰れば     (オオ)ヤマスミ(サクラウチ)が

  ささみきすすむ かれをかみ    ささ酒進む     故 男尊

  とこみきしるや めのこたえ    「床神酒知るや」   女の答え

  ことさかのをか みちきけは    「コトサカノヲが   道 聞けば

  とこみきはまつ めかのみて    床酒は先ず     女が飲みて

  のちをにすすむ とこいりの    後 男に進む     床入りの

  めはことあけす をのよそい    女は言挙げず    男の装い

  めかしりとつく したつゆお    女が知りとつぐ   舌液を

  すえはたかひに うちとけて    吸えば互ひに    打ち融けて                                      

  たましまかわの うちみやに    玉島川の      内宮に 

  やとるこたねの とつきのり    宿る子種の     とつぎ法」

  こおととのふる とこみきは     「子を調ふる     融酒は

  くにうむみちの をしゑそと    国生む道の     教えぞ」 と

  

  かくましわりて はらめとも    かく交わりて    孕めども

  とつきにうます としつきお    十月に生まず    年月を

  ふれともやはり やめるかと    経れどもやはり   病めるかと

  こころいためて こそむつき    心傷めて      九十六月

  ややそなわりて あれませる    やや備わりて    生れませる

  あまてるかみそ          アマテル神ぞ

  ふそいすす            二十一鈴

  ももふそゐゑた としきしゑ    百二十五枝     年キシヱ(キシエの年)

  はつひほのほの いつるとき    初日ほのぼの    出づる時 (31穂の元日の日の出)

  ともにあれます みかたちの    共に生れます    御形の

  まとかのたまこ いふかしや    円の保籠      いぶかしや

  うをやをきなの やますみか    大老翁の      ヤマスミが

  ことほきうたふ          寿ぎ歌ふ 

   

  むへなるやや           「むべなるや

  ゆきのよろしも みよつきも    往きの宜しも

  よよにさいわひ ひらけりと    弥々の幸ひ   開けり」 と

  おほよすからに ことふくも    大優らに    寿くも

  みたひにおよふ ゆきよろし    三度に及ぶ   往き宜し

  ひとのとわしの こたゑにも    人の問わしの  答えにも

  とよけのかみの をしゑあり    「トヨケの神の  教えあり

  さわるいそらの みそきにて    障るイソラの  禊にて

  ゑなのかこみは おのころの    胞衣の囲みは  おのころの

  たまことならは ゆきよろし    保籠と成らば  往き宜し」

  たまのいわとお ひらけとて    「尊の結戸を   開らけ」 とて

  いちゑのはなの さくもちて    一位(の木)の放の   笏もちて

  いまこそひらく あまのとや    今こそ開く   天地の戸や  

  いつるわかひの かかやきて    出づる若日の  輝きて

  しらやまひめは うふゆなす    シラヤマ姫は  産湯成す

  あかひこくわに ひくいとお    アカヒコ桑に  引く糸を

  なつめかおりて うふきぬの    ナツメが織りて 正絹の  

  みはたてまつる          御衣奉る

  たらちめの            たらちめの(母イサナミ)

  つかれにちしる ほそければ    疲れに乳汁    細ければ

  ほいゐのかみの みちつひめ    補飯の守の    御乳つ姫

  ちちたてまつり ひたすれと    乳奉り      養すれど

  ひとみおとちて つきひなや    瞳を閉ぢて    月日無や

  ややはつあきの もちのひに    やや初秋の    望の日に (7月15日)

  ひらくひとみの しほのめは    開く瞳の     初の目は

  たみのてふちの よろこひに    民の長ぢの    喜びに

  つかれもきゆる みめくみや    疲れも消ゆる   御恵みや

 

  あめにたなひく しらくもの    天にたなびく   白雲の

  かかるやみねの ふるあられ    架かる八峰の   降る霰

  やすみにこたま このみつお    八隅に反響    この瑞を

  ぬのもてつくる やよとよはた   布もて作る    八響幡

  やすみにたてて きみとなる   (高御座の)八隅に立てて 君となる

 

  くらゐのやまの いちゐくさ    位の山の      一位笏

  よになからえて さくもつは    世に永らえて    笏持つは

  かみのほすゑそ           尊の穂末ぞ

 

  おはひめか            叔母姫(白山姫)が    

  こゑねのくにに みはおりて    還根の国に     御衣織りて

  たてまつるとき なくみこの    奉る時       泣く御子の

  こゑききとれは あなうれし    声 聞き取れば    「あな嬉し」

  これよりもろか なおこいて    これより諸が    名を乞ひて

  おはよりとへは うひるきと    叔母より問えば    「ウヒルキ」 と

  みつからこたふ           自ら答ふ

 

  みこのこゑ             御子の声  

  きききるときは おさななの     聞き切る時は    幼名の

  うはおおいなり ひはひのわ     ”ウ” は ‘大い’なり  ”ヒ” は陽の環

  るはひのちまた きはきねそ      ”ル” は日の精霊   ”キ” はキネぞ 

  かれうひるきの みことなり      故 太陽霊貴の    尊なり

  きねはめをとの をのきみそ     ”キネ” は女男の    男の君ぞ

  ふたかみおはお たたゑます      二尊 叔母を     称えます

  きくきりひめも           (白山の)キクキリ姫

  あなかしこかな           「あな畏かな」

  

  あかたまの             『天が球の

  わかひるのるは あおきたま     若日の霊は      青き霊  

  くれひのみたま           暮日の神霊

  ぬはたまなりき           萎霊なりき』

  ひさかたの             久方の

  ひかりあれます ういなめゑ     光 生れます     初嘗会 

  あゆきわすきに つけまつり      天悠紀地主基に   付け纏り 

  

  みこひたさんと ふたかみの      御子養さんと   二尊の

  みこころつくす あまのはら      御心つくす    天野原

  そむほゑますも ひとひとそ      十六穂居ますも  一日とぞ

  おほすはめくみ あつきなり      思すは恵み    篤きなり

 

  むかしたまきね ちかいして      昔タマキネ     誓いして

  かつらきやまの やちみそき     葛城山の      八千禊

  すみていとりの てくるまお     済みて斎鳥の    出車

  つくりかつらの むかひとて     造り の     迎ひとて

  はらみにつたふ あるかたち     ハラミに伝ふ    ある形

  ふたかみゆめの ここちにて     二尊 夢の     心地にて

  あひみたまへは とよけにて     会ひ見給えば   トヨケにて

  あめみこひたす ものかたり     陽陰御子 養す   物語り                                             

  

  めすてくるまお ひたかみゑ     召す出車を    ヒタカミへ

  みゆきのきみは やふさこし     御幸の君は    八房輿

  おちつもはへる けたこしも     御乳つ母侍る   方輿も

  みなけたつほの やまてみや     みなケタツボの  ヤマテ宮

  

  みこのひかりの てりとほり     御子の光の   照り通り

  やもにこかねの はなさけは     八方に黄金の  放さけば

  ひのわかみやの わかひとと      日の分宮の   ”ワカヒト” と

  とよけゐみなお たてまつる     トヨケ斎名を  奉る

  

  ふたかみおそれ わかみやに     二尊畏れ    「我が宮に

  むへそたてしと あめにあけ      むべ育てじ」 と  上に上げ

  おきつのみやに かえります     オキツノ宮に  帰ります

  

  あめみこまなふ あめのみち     陽陰御子 学ぶ 陽陰の道

  ひとりはんへる ふりまろは     一人侍んべる フリマロは 

  むよやそきねの よつきこそ     六代ヤソキネの (六代タカミムスビ) 代嗣子ぞ

  たかみむすひの ゐつよきみ     タカミムスビの 五代君(トヨケ神)

  ひことにのほる あまつみや     日毎に上る   陽陰つ宮 (ヤマテ宮)

 

  わかひとふかく みちおほす     ワカヒト深く 道を欲す

  あるひのとひに まことなお     ある日の問ひに 「真名を

  ゐみなとたたゑ あねにみつ     斎名と称え 姉(ワカヒルメ)に三つ

  われはとつなり これいかん      我(ワカヒト)は四つなり これ如何ん」

 

  たまきねいわく ゐみなには     タマキネ曰く 「斎名には

  たらによつきに なとのりと     親に代嗣に 名と和りと

  あわせよつなり           合せ四つなり

  あまつきみ             和つ君

  ひよりとまてお つくすゆゑ     ヒよりトまでを(一から十まで) 尽す故

  ひとにのります           ”ヒト” に和ります(人となる)

 

    「・フ・ミ・・イ・ム・・ヤ・コ・」(天の巡り)

一から四までは未熟な「ひよ(こ)」、一から七までが「ひな」、十(と)に達すると「人」となる。 

 

 きねひこ うしのりなり    ”キネ” と “ヒコ”  ”ウシ” も和りなり  

 めはのらす ふたをやふたつ    女は和らず     二親二つ

 をにうけて こおうむゆえに    男に受けて     子を生む故に

 なにこひめ またこなにひめ    ”何子姫”      また “子何姫”

 なにとも おなにともつく    ”何小” とも     “小何” とも付く

  

 めのなみつ をのなのりよつ    女の名三つ      男の名和り四つ

 たたゑなは いくらもつけよ    称え名は      幾らも付けよ

 ゐみなとは しむにとほれは    斎名とは      シムに通れば

    まことなるかな       真なるかな」

 

全体をまとめてみましょう。

高間殿にてオオモノヌシが日の神アマテルの齋名(いみな)の謂れを諸神に問うと、オオヤマスミがこのようにお答えになられました。

「上祖(みおや)の記す歌にあり」、さらに諸神がその内容を尋ねるとオオヤマスミは謹んでお答えになられました。

昔のこと、この国を最初に開いたクニトコタチには八人の皇子が織りました。

御子の名前はその頭文字をとって、「トホカミエヒタメ」といい、この八人を総称して「クニサッチ」と呼びました。

その中の一人ノクニサッチは、有用な木や草の種を土産に携えてホツマの国に天くだりました。
 ホツマの国はハラミ山(現・富士山・蓬莱山)を中心とした東海・関東地方で、トの神が天降った所から「ト下国」ともいいました。

同じ頃、東方はるか彼方の国「ヒタカミ(日高見)」の国がありました。

高き波の上に日の昇る美しい国で、トのクニサッチは彼の地を治めていたタカミムスビと協力して東国を平和に統治しました。

この時、クニトコタチ建国のシンボルの花、常世(トコヨ)の橘(たちばな)の花もハラミ山に植えて、この秀峰の名をカグヤマ(天香久山)と称えました。
時は下り、六万年で折鈴(さくすず)となり枯れるという真榊(まさかき)を代々植え継いでヒタカミ国を治めていたのは、五代目タカミムスビ真名(いみな)タマキネです。

タマキネは高天原(たかまがはら)のサコクシロ宮に鎮座する四十九神をヒタカミの地に勧請して、地上の高天原としました。  

四十九神の名は、中心に座(いま)すアウワのアメミオヤ(天御祖神)神、次に元明け(モトアケ)のトホカミエヒタメの八元(ヤモト)神、続いてアイフヘモヲスシの天並(アナミ)神、そして三十二(ミソフ)神の計四十九神です。(フトマニ図の神々)

タマキネがこの四十九神を招き祭って以来、民の生活(くらし)も豊かに栄え平和が長く続いたので、
諸民は豊饒(ほうじょう)を授かった神に対し、尊敬の念を込めて「トヨケ(豊受)の神」と呼び称えました。

又、トヨケは東の君(ひがしのきみ・東王父)とも慕われて、クニトコタチの定めたアメナルミチを受け継ぎ、神を祭る行事大嘗祭(オオナメゴト)を司りました。

六万年毎に植え継いできた真榊は、すでに二十一鈴(フソヒノスズ)となり、年は百二十万七千五百二十年にもなりました。

しかし、神の子孫と称する氏(うし)は千五百人にも増えたものの、その中に民の悩み苦しみを理解し、アメナルミチにより人々の嘆きを解決出来る者は一人もいなかったのでした。

「こんなありさまではアメナルミチも尽きてしまう」と悩んだ末、トヨケ神は意を決して国で一番高いハラミ山に登って国々を展望して見ました。

すると、八洲(やしま)の民は増大を続けて蠢(うごめ)き騒がしくさまよい、これでは人の道も学べないのは道理だと嘆きヒタカミの宮に帰りました。

娘のイサコ(イサナミ)も同じく、父神に申し上げて「世嗣子(よつぎこ)も、がな」といえば、父は早速フトマニ(大占)を占った後に、中国(なかくに・現奈良)に赴いて月桂城(つきかつらぎ)の鳳山(イトリやま)に世嗣社(よつぎやしろ)を新造し子種が与えられんことを祈願しました。

世嗣社(よつぎやしろ)の八隅(やすみ)には八色(やいろ)の垂(しで)を立てて、宇宙神のアメノミオヤ神に祝詞(のりと)を捧げ、トヨケ自ら一心に禊(みそぎ)を重ねること八千座(ヤチクラ・八千回)の印を契る頃には神の稜威力(いずち)が通じて神意を感得しました。

 アメノミオヤ神の眼(まなこ)から漏れ出る日霊と月霊そして天元(アモト)神に三十二(ミソフ)神のご加護ゆえ子種に恵まれんことを覚えました。

 時を同じくして、イサナギ、イサナミもハラミ山に登って日毎に朝日の出る東方に向かって百拝(ひゃくはい)を重ねていました。

そんなある日両神は共にお互いの悩みを話し合われて、「私達は、一緒に全国を巡幸して国の再建を計り、民を豊かに治めて平和な国をつくりました。すでに姫皇子(ひめみこ)は生まれたものの国の政(まつりごと)を継ぐ嗣子(つぎこ)に未だ恵まれませんので、先の楽しみがありません」と素直に打ち明けました。

 二人はこの後、ハラミ山頂の子代池(このしろいけ)の池水で左眼を洗い日霊に祈り右眼を洗って月霊に祈り、イサナギはシコリドメ(石凝姥)が鋳造して君に捧げた真澄鏡(ますみのかがみ)を二枚取り出すと、それぞれ日と月にたとえ両手に捧げ持って神の出現を乞い願いました。

八峰(やつみね・富士八峰)の首巡り(お鉢巡り)の行を通して、アグリ(天恵)を乞い願い続けました。

日を重ねて千日目になる頃に御魂(みたま)がチリケ(身柱)の門の紋所(かどのあやどころ)に入るのを感じると同時に、白脛(しらはぎ)が桜色に染まりました。(身籠るのにちょうどよい体のめぐり・具合といったところ)

 ある日男神が女神に生理を聞くと、姫は、「月経(ツキノオエ)も三日前に終わり今は身も清くなりましたので、日の神をお待ちしています」と答えました。

男神も微笑んで、共に旭日を拝んだところ、日の輪が突然飛び降って両神の前に落ち留まりました。

両神は日の霊(たま)を抱くと恍惚境にはいり、その夢心地から醒めた後も心は潤い宮に帰り着きました。

帰りを心配していたオオヤマズミが、早速二人に笹神酒(ささみき)をお勧めすると、イサナギはイサナミに、「トコミキ(床神酒)」の意味を尋ねました。

イサナミは、「はい、コトサカノオ(事解雄)から作法を聞いております。床神酒は先ず女が先に飲んで後に男に勧めるのが習わしです。床入りの時は女は先に言葉を掛けずに、男の素振りや様子を察して床に入り交わります。さらに舌液(シタツユ)をお互いに吸えばもっと打ち解けて、玉門川(タマシマガワ)の内宮(うちみや・子宮)に子種が宿るのが嫁ぎ法(トツギノリ)で、子を整うる床神酒は、国生む道の教えぞと、伺っております」 と答えました。

 このように教えに従って交わって孕んだものの、十ケ月経っても生まれず、年月を経れどもなかなか生まれないので両神の心労は増すばかりでした。

そしてようやく九十六ケ月目になってやっと臨月を迎え、備わりご降誕になられたのがアマテル神でした。

 二十一鈴(フソヒスズ)、百二十五枝(モモフソイエダ)、キシエの年の元旦、初日がほのぼのと出ずる時に、丸い玉子の御形(みかたち)、胞衣(えな)でお誕生になられた天子(みこ)のお姿を、皆一様に不思議でいぶかしく思いました。

 この時、御祖翁(みおやおきな)のヤマズミがご降誕を祝して言寿ぎ(ことほぎ)をされ、歌を詠い上げました。

宣(む)べなるや  雪(幸先)のよろしも
御世嗣(みよつぎ)も  代々(よよ)の幸い  開けり

と、一晩中に渡り寿(ことぶ)き心から国の未来を喜び祝って、詠うその回数も三度(みたび)に及びました。

 幸先もよろしい。玉子の姿で生まれた天子の姿に人々の疑問に思いその理由を翁に問いました。

 翁が答えるには、「トヨケ(豊受)の神の教えにあります。害を及ぼすハタレ(悪魔)の一派イソラの障害から君を守ろうと身を固めて祈祷したので、生まれ出た時自然に胞衣(えな)に守られていたのは幸運の記しです」

 玉の岩戸を開けとばかりに一位(いちい)の木の笏の先(さくはな)を持って、今こそ天の戸は開かれんと胞衣から御子を取り上げました。

その時出ずる若日が天地に輝き渡り、イサナギの妹のシラヤマ姫が御子を産湯につかわせました。

両神初め諸臣、民の喜びはたとえようもなく、万歳(ヨロトシ)、万歳(ヨロトシ)と声の波となって国中に伝えられました。

 先にアカヒコ(赤彦)は桑の繭(まゆ)から糸を引いて紡ぎ、ナツメ(夏目)が織って産着に仕立ててこの御衣を奉りました。

 母のイサナミは長期間の懐妊の疲れから乳の出が細かったので、広く乳母を求めて、ホイイの神のミチツ姫(満乳津姫)が添え乳(そえぢ)をして御子を養育しました。

 しかしいつまでたっても瞳を閉じたままの天子に両親の心配は絶えませんでした。

やっと七月十五日(ハツアキノモチノヒ)に開いた両眼の潮の目の愛らしい事、民の拍手(てうち)の喜びに母・皆の疲れも消え去るのでした。

 天に棚引く白雲の掛かる八峰(やみね・富士八峰)に降る霞(あられ)、日の国の隅々に丹子玉(ニコダマ)となりこだまするこの瑞兆(みず)を布に表わして八豊幡(ヤトヨハタ)を作り、これを高御座(たかみくら)の八隅に建て、ここに君となられました。

 玉子の姿で生まれたアマテル神を取り上げる際に、被っていた胞衣(えな)を割くのに用いた、位(くらい)の山の一位の笏(さく)をこの時関係者一同に賜わり、以来子々孫々笏を持つ者は神の末裔となりました。

 叔母姫(白山姫)がコエネ(扶桑北)国で織った御衣を進上する際、天子(みこ)の声が「アナウレシ」と聞こえたので、これが君の最初の言葉となりました。

これを知った諸神達が叔母姫に是非天子(みこ)にお名前を聞いてほしいと懇願しました。

姫から天子(みこ)に問うたところ、自ら「ウヒルギ・大日霊貴」とお答えになられました。

 この声を良く聞き切ってみると、天子は自分の幼名(おさなな)を名乗られ、その意味は、「ウ」は大いなり、「ヒ」は日の輪、「ル」は日の霊(ちまた)、「キ」はキネで、男君を表わします。

これにより、君の幼名(オサナナ)はウヒルギの天子(みこ)となられました。

 両神はシラヤマ姫に対し「良くぞ天子の名を聞き切ってくれた」と大いに称えて、キクキリ姫(菊桐姫)の称え名を新たに賜いました。

赤玉(あかたま)の  若日霊(ワカヒル)の霊(ル)は  青き玉
暮日(くれひ)の御霊(みたま)  烏羽玉(ぬばたま)なりき

真赤に昇る新年の初日とともに、ご降誕あらせられた天子様、若き日の
御霊は青き未来を密めておられます。紅色(くれない)の日暮れの
太陽は大きく輝いて、今宵の夢を育む烏羽玉色です


 久方の朝日とともに降誕された君の初の大嘗祭(おおなめまつり)が十一月半ば(旧冬至)に、厳粛に執り行なわれました。

 アユキの宮(悠紀殿・ゆきでん)にはアメトコタチ(天常立神)の九星(コホシ)を勧請して祭りました。アメノミナカヌシ(一)神とトホカミエヒタメの(八)神です。

 ワスキの宮(主基殿・すきでん)にはウマシアシガイヒコチ神(可美葦牙彦道神)の十一神を勧請して祭り、その神々は方位を守るキツヲサネ(東西中南北)の(五)神と、アミヤシナウの(六)神です。

即位を天の九神と地の十一神にご報告してめでたく,天・地・人の信任を受けて正式に天君となられました。

 両神はハラミノ宮にて天御子(あめみこ)を立派な指導者とすべく昼夜御心を尽くして養育され、すでに前後十六年間もお住まいになられたのも、あっという間の一日の出来事のように思われました。それもこれも天子への熱き愛情と深き恵みの賜物ゆえのことです。

 以前の事、タマキネ(トヨケ神)は桂城山(かつらぎやま)で八千回に及ぶ禊(みそぎ)にて世嗣社(よつぎやしろ)に誓いを立てました。そして満願かなった後に、桂(かつら)材で鳳凰(イトリ)の鳳輦(てぐるま)を初めて造り、桂のお迎えと称してハラミノ宮に参上しました。

 そのご様子は、突然の天御子(あめみこ)お迎えの報に両神は喜び勇み出迎えお会いになると、正にトヨケご自身が遠路はるばるの来訪で、驚き嬉しとやらで感無量の一大事でした。

 両神とトヨケの話す話題は常に天御子の教育方針に終始し、話が一決すると我が子を抱いた母親が、天子(みこ)共々ヤフサコシ(八房輿)にお召しになり、御乳津母(オチツモ)及びトヨケはケタコシ(方丈輿)に乗っていました。

その後をお供の者達が続いて、ゆらゆらと日の出の国ヒタカミへと向われ、全員無事に方壷(けたつぼ)のヤマテ宮(仙台宮)に入城しました。

 その時のことです。天子(みこ)は輝きを発ち、瑞光四方に照り徹(とお)ったかと思うまに、八方(やも)に黄金(こがね)の華が咲くように、海の真砂や魚、山の草木も黄金色に染まりました。

 この光景に感動したトヨケは、天子に日の若宮の「ワカヒト」という齋名(いみな)を奉りました。

両神は天御子(あめみこ)の威光に恐れ入り、 「我が宮には過ぎたる君、親元において育てる訳にはいきません」と言い残し、高天原(宮中)に天子を上げオキツノ宮へと帰られました。

 ヒタカミの国のヤマテ宮に入られた天御子は、アマツミヤでトヨケ神よりアメナル道(帝王学)を真摯に学ばれ、フリマロも学友としてともに学びました。

 このフリマロは六代目タカミムスビ、ヤソキネの世嗣子(タカキネ)で、生涯をアマテルカミの補佐して政(まつりごと)を執られました。

 タカミムスビ五代目のタマキネ(トヨケ神)は、天御子の祖父として、又厳格な教師(おしえど)として毎日天つ宮(あまつみや)に詣でて、クニトコタチの永遠なる思想、人の道の奥義であるアメナルミチを講義されました。

 ワカヒト君は深く真理を求めアメナルミチの奥義を追求してやみませんでした。そんなある日のこと、君はタマキネにご質問をされました。

 「齋名をイミナと称して、姉(ワカ姫:ヒルコ)の名は三音(みつ)我(ワカヒト)は四音(よつ)なのはいかなる訳でしょうか」。

 タマキネはこうお答えになられました。
 「イミナ(齋名)の男名(おとこな)が四音(よつ)なのは、まず父母からの二音(ふたつ)と世嗣(よつぎ・姓)に名(な)と宣(のり)の二音(ふたつ)を合わせて四音(よつ)になります。

天つ君は一(ひ)から十(と)までを完全に備えて人の上に宣(の)るので仁(ひと)と名宣(なの)ります。

 しかし、女性は名を宣らず、二親からの二音(ふたつ)と、男性と結ばれて子供を生むので、”何”子姫 又は 子”何”姫 や ”何”於(ナニオ)や 於”何”(オナニ)などとも名付けます。

これにより女性の名前は三音(みつ)で男性の名が四音(よつ)となります。

 又、タタエナ(称え名)は、その人の功績次第でいくつでもつけられるのです。

この様にイミナ(齋名)というのは、人格や血統・血筋(シム)にまで影響するので真の意を込めて付けるべきです」

 

ひとこと

ホツマツタヱの最も特徴的なところは、この国(現在の日本)は数十万年前の天神時代から天君による統治が敷かれており、各地方(文中では、州(くに:今でいうところの何々地方)や邦(くに:現在の自治体レベルの統治圏)毎にいろいろな部族・一族がいるもののそれらは、中央国家から厳しく管理されていたようです。

ハタレの動乱(別記事参照)なども、中央の管理体制に不満を持ったものが集まった結果悪意を以て反逆しようとした勢力と結託して、所謂クーデターを起こしたものとして書かれています。

当然その頃の世界地図(大陸分布)も現在とは少し違っていたものと思われ、現在の朝鮮半島や東アジア辺りまでヤマトの国という認識で読み進めると、渡来系種族や原住民族との交わりの歴史であるとした他の文書(正統竹内文書など)とは若干意味合いが変わっているように感じるかもしれません。

しかし、それも見方次第なのかもしれません。 種族を超えた統一意識を以て国家(世界)が運営されていたと考えればかなり多くの共通点を見出すこともできます。

ここで一番大切なことは、つまらない自虐史観をすてて且つ何故そのような記述が残っているのかを真摯に考えることなのではないでしょうか。

「何でも起源説」を唱えるわけではありませんが、日本という国の特殊性については客観的且つ真面目に取り組みたいと思っている方は非常に多く、たくさんの研究が公表されています。

信じる信じないよりも、先ずは一通り読み学んでみることを一人でも多くに方に伝えたいと思います。

 

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コメント

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