ホツマツタヱ全文紹介! 天の巻 ⑤ 和歌の枕言葉のアヤ 【イサナギ・イサナミと和歌の枕言葉の文】解説。 正しい言葉の成り立ち、原文ひらがなと漢字読み。

ホツマツタヱとアワのうた

イサナギは一段落したのもつかの間、自らがやり残した重大な責務を思い起こした。それは、国民相互の心を伝達し合う言葉の乱れを正すことでした。正しい言葉を教えて民に人の道(アメナルミチ)を教え導かねばならないとの思いから、考えた末アから始まりワで終わる五・七調の歌いやすいアワ歌を考案しました。

イサナギ・イサナミと和歌の枕言葉

・わかのまくらことはのあや      ワカの枕詞の文

もろかみの かみはかりして     諸守の       守議して

ものぬしか まくらことはの     モノヌシが     枕言葉の

ゆゑおとふ もろこたゑねは     謂を問ふ      諸 答えねば

あちひこか これはみそきの     アチヒコが      「これはミソギ

ふみにあり             文にあり」

もろこふときに おもいかね     諸 乞ふ時に    オモヒカネ

これときいわく           これ説き曰く 

 

ふたかみの             二尊の      

おきつほにいて くにうめと     オキツボに居て   国生めど

たみのことはの ふつくもり     民の言葉の     悉曇り

これなおさんと かんかゑて     これ直さんと   考えて

いねななみちの あわうたお     五音七字道(五・七調)の  アワ歌

かみふそよこゑ いさなきと     上二十四声    イサナギ

しもふそとこゑ いさなみと     下二十四声    イサナミ

うたひつらねて をしゆれは     歌ひ連ねて    教ゆれば

うたにねこゑの みちひらけ     歌に音声の    道 開け

たみのことはの ととのゑは      民の言葉の    調えば

なかくにのなも あわくにや     中(津)国の名も  アワ国

 

つくしにみゆき たちはなお     筑紫に御幸    橘を

うゑてとこよの みちなれは     植えて常世   道成れば

もろかみうけて たみおたす     諸守受けて    民を治す

たまのをととむ みやのなも     霊の結 留む    宮の名も

をとたちはなの あわきみや     復橘の      和来宮

みこあれませは もちきねと     御子生れませば  モチキネ

なつけていたる そあさくに     名付けて到る   ソアサ国

さくなきのこの いよつひこ     サクナギの子の  イヨツヒコ

うたにことはお ならわせて     歌(アワ歌)に言葉を  習わせて

ふたなおもとむ あわつひこ     二名を求む    アワツヒコ  

 

そさにきたりて みやつくり     ソサに来りて   宮造り

しつかにいます きしゐくに     静かに結ます   キシヰ国(紀州)

たちはなうえて とこよさと      植えて    トコヨ里(常世の邦)

さきにすてたる ひるこひめ     先(以前)に捨てたる  ヒルコ姫

ふたたひめされ はなのもと     再び召され    木の下

 

うたおをしえて こおうめは     歌を教えて    子を生めば

なもはなきねの ひとなりは     名もハナキネ(ソサノヲ)の  人態は

いさちおたけひ しきまきや     騒ちお猛び    頻捲き

よのくまなせは ははのみに     世の隈成せば   母の穢に 

すてところなき よのくまお     捨て所なき    世の隈を

わかみにうけて もろたみの     我が身に受けて  諸民の

かけおつくなふ           欠けを償ふ

   

みくまのの             御隈野

みやまきやくお のそかんと     御山木 焼くを (向い火を放って)除かんと

うむほのかみの かくつちに     生む火のの   カグツチに

やかれてまさに おわるまに     焼かれてまさに  終る間に

うむつちかみの はにやすと     生む土の神    ハニヤス

みつみつはめそ           水 ミツハメ

 

  

かくつちと             カグツチと

はにやすかうむ わかむすひ     ハニヤスが生む  ワカムスビ

くひわこくわに ほそはそろ     頭はに    ソロ(栄え繁る)

これうけみたま           これウケミタマ(ウカノミタマ)

 

いさなみは             イサナミは

ありまにおさむ はなとほの     アリマに納む   端と穂の

ときにまつりて ここりひめ     時に祭りて    ココリ姫

やからにつくる           族に告ぐる

   (有馬にて手厚く葬られたのち、国民にその旨告げられた)

  

いさなきは おひゆきみまく    イサナギは     追ひ行き見まく

    (いさなきは、根の国のイサナミに会いに行った)

                                            

ここりひめ            ココリ姫     

きみこれみなそ なおきかす    「君これな見そ」   なお聞かず

かなしむゆえに きたるとて     「悲しむ故に    来たる」 とて

ゆつのつけくし おとりはお     髻の黄楊櫛     辺歯を

たひとしみれは うちたかる     灯とし見れば    蛆たかる

いなやしこめき きたなきと     「厭や醜めき    汚なき」 と

あしひきかえる           足退き帰る

   

そのよまた             その夜また

かみゆきみれは かなまこと     ’神往き’みれば   「要真  

いれすはちみす わかうらみ      容れず恥見す   我がうらみ

しこめやたりに おわしむる     鬼霊八人に    追わしむる」

 

つるきふりにけ えひなくる     剣振り逃げ    葡萄(ぶどう)投ぐる

しこめとりはみ さらにおふ      鬼霊 取り食み   更に追ふ

たけくしなくる これもかみ     竹櫛投ぐる    これも噛み

またおひくれは もものきに     また追い来れば  桃の木に

かくれてももの みおなくる     隠れて桃の    実を投ぐる

てれはしりそく えひゆるく     てれば退く    葡萄ゆるく

くしはつけよし もものなお     櫛は黄楊よし   桃の名を

おふかんつみや           ”穢神潰” や

  

いさなみと             イサナミと     

よもつひらさか ことたちす     黄泉辺境     言立す

 

いさなみいわく           イサナミ曰く

うるわしや             「麗しや

かくなささらは ちかふへお     かく為さざらば  千頭を

ひひにくひらん           日々にくびらん」

     (一日に千人の人が死ぬ)

  

いさなきも             イサナギも

うるわしやわれ そのちゐも     「麗しや 我     その千五百

うみてあやまち なきことお     生みて誤ち     無き事を

まもる               守る」

      (一日に千五百人の人を生もう)

 

よもつ             黄泉の

ひらさかは             辺境は      

いきたゆるまの かきりいわ     生き・絶ゆる間の   限り結

これちかえしの かみなりと     「これ霊還しの    なり」 と (結界)

くやみてかえる もとつみや     悔みて帰る     元つ宮

 

いなしこめきお そそかんと     「穢・醜めきを    濯がん」 と

おとなしかわに みそきして     音無川に      禊して

やそまかつひの かみうみて     八十禍霊の     神生みて

まかりなおさん かんなおひ     り直さん     神直霊

おおなおひかみ うみてみお     大直霊神      生みて身を

いさきよくして のちいたる     潔くして      後到る

   

つくしあわきの みそきには      筑紫アワキの     禊には

       (筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原での禊)

なかかわにうむ そこつつを     ナカ川に生む    底ツツヲ

つきなかつつを うわつつを     次 中ツツヲ     上ツツヲ

これかなさきに まつらしむ     これカナサキに   纏らしむ

 

またあつかわに そことなか     またアツ川に   底と中

かみわたつみの みかみうむ     上海神の     三守生む

これむなかたに まつらしむ     これムナカタに  纏らしむ

 

またしかうみに しまつひこ     またシカ海に   シマツヒコ

つきおきつひこ しかのかみ     次 オキツヒコ   シガの守

これはあつみに まつらしむ     これはアヅミに  纏らしむ

 

のちあわみやに みことのり     後 アワ宮に    御言宣

みちひきのうた           導きの歌

あわきみよ             「アワ君よ     

わかれおしくと つきおくる     別れ惜しくど   妻送る

をうとはゆかす ゆけははち     夫は逝かず    逝けば恥

しこめにおはす よしあしお     鬼霊に追わす   善し悪しを

しれはあしひく よもつさか     知れば足退く   黄泉境

ことたちさくる うつわあり     言立ちさくる   器あり」

 

みそきにたみの ととのいて     ミソギに民の   調いて

いやまととほる あしひきの     弥和 通る     葦引き

ちゐものおたの みつほなる     千五百の生田の  瑞穂成る

まとのおしゑに かかんして     (真の)大和の教えに   かかんして

のんあわくには てんやまと     のんアワ国は   てんヤマト 

ひきてあかるき           ひきて明るき(導き至りてヤマトとなる)

 

あしはらの             葦原の

うたもさとれよ まとみちの    (アワ)うたも悟れよ (真の)トの道の

とほらぬまえの あしひきの     通らぬ前の     葦引き

まくらことはは うたのたね     枕言葉は      歌の種

あしひきはやま           『あしひき』は ”やま”

   

ほのほのは             『ほのぼの』は

あけぬはたまは よるのたね      ”あけ” 、『ぬばたま』は  ”よる” の種

しまつとりのう おきつとり      『しまつとり』の “う”   『おきつとり』

かもとふねなり            “かも” と “ふね” なり                                             

        (ヨモツとヤマトから来る・・よもやま)

このあちお             この味を

ぬはたまのよの うたまくら     ”ぬばたまの夜の   歌枕”

さめてあかるき まえことは     ”覚めて明るき    前言葉”

こころおあかす うたのみち     心を明かす     歌の道

みそきのみちは みおあかす     身濯ぎの道は    身を明かす(心身を調和する)

やまとのみちの           ヤマトの道の

おおいなるかな           大いなるかな

 

全体をまとめてみましょう。

ある日、諸神が集う神議(かみばかり)が無事に終わり、一息ついたところで大物主(おおものぬし:オオナムチ)が一同に次のような質問をしました。

 「私は枕言葉とは何なのかをよく知りません、その謂れをどなたかお教えいただきたく思います」、するとアマテル神の姉ワカ姫の夫アチヒコ(思兼命:オモイカネ)が「これは禊(みそぎ)の文の中にあります」と口を開きました。

諸神は「私達にも是非聞かせて下さい」といい、オモイカネは、それにこたえるように語り始めました。

 イサナギとイサナミの二尊(ふたがみ)が、今のアワウミ(淡路)の瀛壷宮(オキツボ)にて国造りされていた時、この宮を起点にして大八洲(おおやしま)の各地を巡幸し、農耕を普及させ民を豊かにし、法を定め、平和で豊かな国の再建を成し遂げました。

そしてそれらが一段落した時、最後に整えるべき重大な責務に思い馳せました。 それは、、、。

 オモタル・カシコネ(五代目天君)の御代、日嗣(ひつぎ)の御子に恵まれず世は混乱して秩序を失っていました。

 州(くに)ごとに民の言葉はまちまちで、ヤマト国としての統一を欠いていたため、何とか正しい言葉を教えて民にアメナル道を教え導く必要がありました。

イサナキ・イサナミの二尊は考えた末、から始まりで終わる五・七調の歌「アワ歌」を考案しました。

 上(かみ)の二十四音をイサナギが歌い、下(しも)の二十四音をイサナミが歌い連ねてカダガキ(ビワの原型)を打って弾き歌い、アワ歌を教えながら諸国を行幸しました。

イサナキ
イサナキ

アカハナマ イキヒニミウク フヌムエケ ヘネメオコホノ

イサナミ
イサナミ

モトロソヨ ヲテレセヱツル スユンチリ シヰタラサヤワ


 アワ歌によって音声も整い言葉が明白になり、民の乱れた言葉も統一されて秩序も回復し国は平和に治まりました。

これを記念して今までナカクニ(葦原中国:あしはらのなかつくに)と呼んでいた近畿地方を新たに分割して、最初にイサナギ・イサナミが国の再建に尽くしたこの地を「アワ国」と名付けました。
 その後二尊(ふたかみ)はツクシ宮に行幸され、クニトコタチの理想郷トコヨ国(常世国)を表わす橘の木を宮前に植えて、ここでもアワ歌を民に教えて国も豊かになりました。

 二尊が去った後も、ツクシ(九州)、三十二県(ミソフアガタ)の国津神達は、君の教えを受け継いで国民(くにたみ)を平和に治めました。

 二尊は、「君」(イサナキ)の偉大な御霊(たま)の緒(お)を留めるここ「ツクシの宮」を「オトタチバナノアワキミヤ(緒止橘之阿波岐宮)」と名付けました。

 この宮に移ってから生まれた三番目の御子の名を「モチギネ(月夜見命)」と言います。

その後君はソアサ国(四国)へと行幸し、この地を治めていたサクナギの子の「イヨツヒコ(伊予津彦)」にアワ歌を伝授し国中の民に歌を歌わせると、言葉の音声も整ってここでも国民を平和に治めることができました。

 イヨツヒコはアワ歌を教え広めたこの宮の名を「アワ宮(阿波)」と名付けて、自らも「アワツヒコ(阿波津彦)」という称え名を許され、アワイヨの両国を治めました。

 イサナキは次にソサ(南紀伊)の渚に来(キ)たりて宮を造り、静(シず)かに居(イ)ましたので、この地をキシイ国(紀州)と名付け、ここにもクニトコタチ建国の象徴である橘の花を植えて理想郷のトコヨ里(トコヨ州:くに)を造りました。

 先に身の汚穢(オエ:汚れ)を清めるために流されたアマテル神の姉ヒルコ姫も、再び両神(イサナギ・イサナミ)の元に召されて、ご家族一緒に仲睦まじく暮らすこととなりました。ヒルコ姫も今では美しく成長されて、名前も「ワカヒルメ(姫)」を賜わりすっかり災いは祓い除かれました。

 ワカヒルメが花の下で母イサナミから和歌の手解(てほど)きを受けている時、母イサナミが第四子をお生みになりその子の名を「ハナキネ(ソサノヲ)」と名付けました。

 しかし美しい名前にも関わらず、ハナキネは成長してもなお、常に泣叫(いざち)・雄叫(おたけび)をあげ母イサナミを困らせるばかりでした。

 ある時は重插(しきまき)をして新嘗祭(にいなめさい)用の神田をだめにし、田に馬を放って畔(あぜ)を決壊させるやら民を苦しめて、世にクマ・隈(災い)をなしていました。

 母イサナミは、息子ハナキネの扱いに悩みある決意をしたのです。
 「先に身のオエを流すために幼いヒルコを川に流し、美しいワカヒルメとして復活したのに、今となっては成長したハナキネのクマ(災い)を正す術(すべ)も無い、ハナキネの罪を全て我が身の汚穢とせねばなりません」。

 それらの罪穢れを清めるため熊野三宮を建て天津神に祈祷しましたました。
 本宮の名を「クマノ宮(熊野)」と呼ぶようになったのも、ハナキネのクマ(災い)を清めるためです。
 しかしハナキネはあろうことか熊野三山に火を放ち、山火事を起こし、結果大切な母を死に追いやってしまったのです。

 この時、父イサナキはt国に出掛けており留守だったので、イサナミは勢いづく山火事をなんとか自分だけで治めようと、火の神の「カグツチ(迦具土)」を生んで迎え火で山火事を抑えようとしましたが、ついに火にまかれて焼死してしまいます。

そして死の間際に最後の力を振り絞り生んだ神の名は土の神の「ハニヤス(埴安姫)」と水神の「ミズハメ(網象女)」でした。

続いてこのカグツチとハニヤスが結ばれて生まれ出た神の名を「ワカムスビ(稚産霊)」といいます。この神の首(頭)からは蚕(かいこ)と桑が生え出て、濟(へそ)からは稲が生え出てきました。

後に人々はこの養蚕と稲をつかさどる神を崇めて「ウケミタマ(宇迦御魂神うかのみたま・稲荷神)」として祭りました。

  (ウケミタマ(宇迦御魂神うかのみたまかみ)が稲荷神として祀られるようになったのは、「ハタレの乱」以降のことです。)

 命を懸け心を尽くし民を守ったイサナミの亡骸(なきがら)は、民の手により現・熊野市のアリマ(有馬)に納められました。人々はイサナミの美しい心を愛でて、今日でも春祭は花を飾って祝い、秋祭は初穂を奉げて徳を偲んでいます。

 イサナギの妹ココリ姫(菊桐姫)は駆け付けたイサナキに告げます、「君、これな見そ」(君よ、亡骸を絶対見てはなりません)、しかしイサナギは耳を貸すことはありませんでした。

 イサナキは頭に差した黄楊(つげ)の櫛(くし)を抜くと清めの祓いを済ませ、櫛の雄鳥歯(おとりば)に火を付け明りを近づけて見ると、亡骸には蛆(うじ)がたかっていました、思わず「ああ何と醜く汚い姿よ」といい足をひきずるように引き返しました。

 その夜、イサナギは神ユキを行い霊体となって黄泉の国へとイサナミに会いにいきました。

(一時的にではあるが、肉体から離れて霊体となることでこの世(現世)からいなくなってしまう。国創りの神が不在となることは国政にも大きな影響を及ぼすことになることを、この時イサナキは考えもしなかった。)
 するとイサナミが目前に現われて、恨めし気に言い放ちました。
 「あなたは重要な死という現実を受け入れず、見てはならない私の亡骸を見て恥を与えた。あなたも神の務めを離れこんなところまで来るなどと、これ以上恥を重ねてはいけません。」と、死体を守る醜女(しこめ)八人に命じてイサナキを追い払います。

 イサナギは恐ろしい醜女の追跡に剣を振りながら逃げ出しました、途中でエビ(山ぶどう)を摘んで投げつけると醜女等は我先に競って食らいついたのも束の間、更に追いかけ今度は竹櫛(たけぐし)を投げるも又噛み砕き追って来るので、近くの桃の木に身を隠して桃の果を投げつけました。

(エビ(山ぶどう)・竹櫛(たけぐし)・桃の果を投げつける行為は、イサナキが黄泉の国まで来たことで背負ってしまった穢れ(未練や悔恨・惧れといった負の感情)をひとつづつ捨て清めていくと云うことを表している。)

 すると不思議なことに醜女等は全員退散しいったのです。この時君いわく、「桃こそは見事に鬼を退散させた功により、神名を賜おう。」と「オオカンズミ(大神津果)」という称え名を与えました。

 イサナキはヨモツヒラサカ(黄泉平坂)に辿り着き、さまよい歩いていました。

イサナミは、坂の途中に大岩(千引岩・ちびきいわ)を据えて二人の間を塞ぐと、二人は大岩を挟んで向かい合い事断(ことだち)を誓いました。

 

イサナミいわく、「愛する夫よ、これ以上私の死を受け入れねば、世は乱れ日々千人の者が命を無くすことだろう(千人の悪人の命を奪わねばならないことになる)」
イサナギいわく、「愛する妻よ、それなら我は毎日千五百人を生んで国を再生し、二度と過ちを犯さぬ事を誓う」と、、。

 (ホツマツタヱでは、決して夫婦喧嘩の末イザナミが怒りに任せて千人の人間を殺す、、と言ったとは書かれていません。)

  

ひまちゃん
ひまちゃん

そりゃそうでしょう・・! 命を懸けて国創りをしてきた神様なんだから。

 別離の誓いを立てたヨモツヒラサカは、人が死に幽明界(ゆうめいさかい)を断じる境界岩(カギリイワ:結界)となり、イサナギはこの岩座(いわくら)を「これ霊返し(チカエシ)の大神なり」と名付けて悔みつつも本宮(モトツミヤ・熊野)へと帰りました。

 黄泉平坂(ヨモツヒラサカ)から帰還した君は、醜く汚れた我が心身を濯(そそ)ごうと願い、音無川(オトナシガワ)で禊(みそぎ)をして新たな神々を産みました。

 まず「ヤソマカツヒノ神(八十禍津日神)」の神を生んで汚(けが)れた体を祓い、「カンナオヒ神(神直日神)」、続いて「オオナカヒ(大直日神)神」を生み心身を清めました。

 この後にイサナギはツクシ(九州)のアワキ宮に行幸し、美しい睡蓮(すいれん)の咲く近くのナカ川で禊(みそぎ)した時に生んだ神の名は、「ソコヅツオ(底筒男)」、次に「ナカヅツオ(中筒男)」、「ウワヅツオ(上筒男)」の三柱の神で、この神はカナサキ(金折命・住吉神)に祭らせました。
 ムナカタ(宗像)のアヅカワ(安曇川)で禊をして生んだ神の名は、「ソコワタツミ(底海祗)」、「ナカワタツミ(中海祗)」、そして「カミワタツミ(上海祗)」の三柱の神で、この神はムナカタ(宗像命)に祭らせました。

 シカウミの渚で禊をして生んだ神の名は、まず「シマツヒコ(島津彦)」、次「オキツヒコ(沖津彦)」、「シガノ神(志賀彦)」の三柱の神でこれはアズミ(安曇命)に祭らせました。

 イサナギは再びアワ宮(淡海)に帰ると間もなくトヨケ(豊受神)からイサナギに詔がありました。

(導きの歌)  

アワ君よ  別れ惜しくと  妻 葬送(オク)る
夫(オウト・追人)は行かず  行けば(妻)恥  醜女(しこめ)に追わす
善し悪しを  知れば足引(あしひ)く  黄泉坂(ヨモツサカ)
事断割(コトダチサ)くる  器量(ウツワ)あり

『アワ君(イサナキ・イサナミの二尊)は、別れを惜しんで妻を送り、夫は残った
 行けば恥と妻が鬼霊を追わし、夫はこの世の戻った。
 事の善し悪しを知れば、足退く黄泉境(後追いの足も退く:後ろ髪をひかれる思いで閉じたよもつひらさかであろう)。
 コトタチサクル(別れの決意の)心は善き判断だった』

 今は心身の穢れも禊により濯がれて、民の暮しも整い国に平和が戻りました。

 

大八洲(オオヤシマ)の隅々にまで言葉が通じ合うようになり、クニトコタチの教えであった「マトの道」(真:まことを伝える(ト)の教え)も益々行き渡り栄えました。

葦原中国(アシハラノナカツクニ)は、マトノオシヱ(和の教え)によって成熟しアワクニ(和国)となり、おおいなるヤマト(大和)となる
ヒキテアカルシにあるように、アワ歌の導きによって民に音声(ネコエ)の道が開け、中国:ナカクニは調和されて和国となる。)

葦引(あしび)きの千五百(チイモ)反の田の瑞穂も実り、ヤマト(大日本)の言源にもなったヤ・マ・ト(弥栄・イヤさか・ことの・の教えがととのう国)に感謝して神前にカカン(かがり火)して、ノン(祝詞・のりと)をアワ国に奉げ、デン(神鈴・拍手)を打って、ヤマトの国の豊穰(ほうじょう)と案寧(あんねい)を祈りました。

 「あしひき」は、葦を引き抜いて水田とな・・ると、黄泉(ヨミ)の国から足を引き返したイサナギの足・・とは同音異義語で、同じように国造りの天意が含まれています、この様に歌の道とは、まだ世の中が乱れてお互い言葉もまちまちで通ぜず、マトミチが行き渡っていない国でのイサナギ・イサナミの国生みの苦労が「足引きの」という枕言葉となり、歌の種として後の世まで記憶され伝えられました。

真(まこと)に心を明かすのは和歌(うた)の道でであり、禊の道は身を潔(あか)す、このように身も心も清められるヤマトの道(和の道)はなんと偉大なことか。

 

:「足引きの」は山や峰、「仄仄(ほのぼの)」は明けにかかり、「ぬばたま」は夜の闇にかかり、「しまつ鳥」は鵜に、「沖つ鳥」は鴨と船にかかります。

鴨と船(又は鴨船)は、その昔船を創案した六人を船魂(ふなたま)神といい、最初に「シマツヒコ(島津彦)」という神で、アワ国のアズミ川(安曇川)で朽ちた木に乗る鵜を見て筏(いかだ)を造り、後に棹を差すことで「船」の基本を造りました。

二番目がその子の「オキツヒコ(沖津彦)」で、鴨が浮き泳ぐのを見て櫂(かい)を造ったので鴨船(かもぶね)と名付けました。

 

マトミチ(和道)の通らない葦引き(下準備の段階)という枕詞は、歌の種(歌が調うまでの準備を指します。)

まとめ

イサナキ・イサナミの二尊は、オシテ文字にあらわされている48音の「音霊」を連ねて歌とし、「言霊」を操ることで心身を整え、人心をまとめ国家を形成していったわけです。

それが大和言葉の根源であり、独自の言葉を作り出していったのでしょう。人の生命の循環に大きな影響を与える天体の周期を元に歌(呪い言葉:まじないことば)を整えて、短歌や和歌の原型が創られていったことを示しています。

そして、一般的によく言われているイサナキ・イサナミの黄泉平坂でのやり取りは決して恨みつらみを発したのではなく、イサナキが一人になっても国創りの使命をちゃんと果たしてほしいとのイサナミの愛情と使命感の表れだったと「ホツマツタヱ」は語っているのだと思います。

 

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