ホツマツタヱ全文紹介! 天の巻 ⑥ アマテル大御神と12人の妃【日の神 十二后の文】解説。13番目のウリフ姫。原文ひらがなと漢字読み。

ホツマツタヱとアワのうた

重罪ソサノヲの処遇と北局のモチコ・ハヤコの裏切り・脱落。そして13番目の妃となったウリフ姫ナカコ。

日の神 と十三人の后              

ひのかみそふきさきあや     日の神 十二后の文

 

ふそひすす ももふそむゑた    二十一鈴     百二十六枝

としさなと やよいついたち    年サナト (58番目の干支の年)   三月一日

 

    ※  (えと:干支のひとめぐりは60年)

一般的によく知られているのは、干支(エト:かんし)でいうところの、

十干:じゅっかん(:きのえ・:きのと・:ひのえ・:ひのと・:つちのえ・:つちのと・:かのえ・:かのと・:みずのえ・:みずのと) 

そして

12支( :ね・:うし・:とら・:う・:たつ・:み・:うま・:ひつじ・:さる・:とり・:いぬ・:い)

 

 と12支の組み合わせで60年(5×12)が暦のひと巡りとなります。

甲・丙・戊・庚・壬 は」、「乙・丁・己・辛・癸は」であり、(五つの要素)木・火・土・金・水の兄と弟という意味です。

 

(ホツマツタエでは、)

人の体のすべての要素を表す言葉(司る又は構成する重要な要素)イクラムワタ(五臓六腑)があります。

イクラ(五臓)は、イクラの神(キ・ツ・オ・サ・ネ)であり、東:き、西:つ、央:お、南:さ、北:ね 「5人のエト守」です。

ムワタ(六腑)は、ムワタの神(ア・ミ・ヤ・シ・ナ・ウ)であり「6人のエト守」、合わせて 十一神のエト守がクニトコタチや8人の皇子と共に誕生しています。

これらはヒトの体の重要な器官を司る神が宿る場所であり、それは命や食を司る重要な要素でもあります。

エト(兄と弟)とは、8人の皇子(ヒタメホカミ:生まれた順)の内の「のクニサツチ」と「のクニサツチ」のことです。

5人のエト守(・ツ・オ・サ・ 6人のエト守(・ミ・ヤ・シ・ナ・ (兄と弟)の組み合わせ、5と6の最小公倍数30×2=60年がひとめぐりとなります。

1年目のキ・ア・ヱ、2年目キ・ア・トで始まり、ネ・ウ・トまでの60年ひとめぐりとなります。

さなとの年とは、サ・ナ・トで58番目の年となる訳です。

     

ひのやまと             日の山のふもと

にいみやつくり あめみこは     新宮造り(ヤスクニの宮) 天皇子(アマテル)は

ひたかみよりそ うつります     ひたかみより 移ります 

ふたかみみめお みことのり     二尊 見侍を  御言宣

かんみむすひの やそきねか     カンミムスヒの ヤソキネが

もろとはかりて くらきねか     諸と議りて   クラキネが                      

ますひめもちこ ねのすけと     マス姫モチコ  北の典侍

そのとめはやこ こますひめ     その妹姫ハヤコ コマス姫

こますひめ ねのうちきさき     コマス姫    北の内后(内侍)

 (北の典侍北のには、クラキネの娘モチコとハヤコ、オシモ乙下侍)はアチコ

 

やそきねの おおみやみちこ     ヤソキネの   オオミヤミチコ

きのすけに             東の典侍に   

たなはたこたゑ きのうちめ     タナハタコタゑ 東の内侍

 (東の典侍東のには、ヤソキネの娘ミチコとコタゑ、オシモ乙下侍)后にツクバハヤマの娘ソガ姫)

 

さくらうちかめ さくなたり     サクラウチが姫 サクナダリ

せおりつほのこ さのすけに     瀬織津ホノコ  南の典侍に      

わかひめはなこ さのうちめ     ワカ姫ハナコ  南の内侍

 (南の典侍南のには、サクラウチの娘ホノコとハナコ、カスヤの娘イロノエ姫アサコがオシモ乙下侍

 

かなさきかめの はやあきつ     カナサキが姫の  ハヤアキツ

あきこはしほの やもあいこ     アキコは潮の   八百会子 (潮の流れの渦が集まる所)

つにすけうちは むなかたか     西の典侍内は   宗像が

おりはたおさこ           オリハタオサコ

おしもめは とよひめあやこ     乙下侍      トヨ姫アヤコ

 (西の典は、カナサキ(住吉神)の娘ハヤアキツ姫アキコ(シオのヤモアイコ:潮の八百会子)、西の内侍はムナカタの娘オリハタ姫オサコ、オシモ(乙下侍)は同じくムナカタの娘トヨ姫アヤコ)

 

かすやかめ いろのゑあさこ     カスヤが娘    イロノゑアサコ

さのおしも             南の乙下(侍)

かたかあちこは ねのおしも     かだがアチコは  北の乙下(侍)

つくははやまは そかひめは     筑波のハヤマは  ソガ姫は

きのおしもそと           東の乙下ぞと

 

 (内宮(正后)の他、 東:キ、西:ツ、南:サ、北:ネ にはそれぞれ3人の妃(きさき)がおかれ、典侍(すけ)・内侍(うちめ)・乙下侍(おしも)と呼ばれていた。正妻と12人の妃)

 

つきによせ みこはあまひの     月に寄せ(十二の月)   御子は太陽の

くらゐのる ひのやまのなもも    位乗る          日の山の名も

おおやまそ かれおおやまと     太山ぞ       故 太山下

ひたかみの やすくにのみや     日高みの      和国の宮                                

  

きつさねの             東西南北の

つほねはかわり みやつかゑ     局は変わり     宮仕え

そのなかひとり すなおなる     その中一人     素直なる

せおりつひめの みやひには     瀬織津姫の     雅には

きみもきさはし ふみおりて     君も階段      踏み降りて

あまさかるひに むかつひめ     天下がる日に    向つ姫

つひにいれます うちみやに     つひに入れます   内宮に

 (天君自らが高御座から踏み下りて、セオリツヒメの手を取って正妻として迎え入れること)

 

かまやまひこか          カナヤマヒコが

うりふひめ なかこおすけに    ウリフ姫      ナカコを典侍に(南の典侍)

そなゑしむ これおこよみの    備えしむ      これを暦の

うりふつき            ウリフ月 (うるう月)                                            

   

みなはたおりて みさほたつ    皆 機織りて     操立つ

 (もともと南の典侍の瀬織津姫が正妻として内宮に入ったため、その後にウリフ姫ナカコが南の典侍に入ることとなったのです。)

 

おとつきよみは ひにつきて     弟ツキヨミは    日に次ぎて (アマテルに次ぐ高位)

たみのまつりお たすけしむ     民の政を      助けしむ

いよのふたなの をさまらて     伊予 (四国)の二名の 治まらて

つきよみやれは いふきあけ     ツキヨミ遣れば   気吹上げ

とのみやにたす ちたるくに     突の宮に治す    チタル国 (西日本北部の根国) 

ますひとこくみ おこたれは     マスヒトコクミ    怠れば (地方長官のコクミは政治を怠り腐敗させていた)

たまきねつけて ひたかみは     タマキネ付けて

やそきねにたす           ヤソキネに治す

  

たかきねお             タカキネを

きみのたすけと たまきねは     君の輔と(して) タマキネは 

ゆきてさほこの くにおたす     行きてサホコの  国を治す

みやつのみやそ           宮津の宮ぞ

  

つきすみは しまつひこより     ツキスミ(九州)は  シマツヒコより                                  

ななよすむ いまかなさきの     七代統む      今(当代)カナサキの

ゑたかはね むなかたあつみ     枝姓(親戚)    ムナカタ、アツミ(によって)

たすけしむ             助けしむ

みよもゆたかに をさまりて     御世も豊かに    治まりて

やよろとしへて ふそふすす     八万年経て     二十二鈴

いついゑはつに みやつより     五百五枝初に    宮津より

はやきしとへは あまひかみ     早雉飛べば     天日霊神

いそきまなゐに みゆきなる     急ぎマナヰに    御幸なる

ときにたまきね あひかたり     時にタマキネ    会ひ語り

むかしみちのく つくさねは     「昔 道奥      尽くさねば

ここにまつとて           ここに全つ」 とて

 

さつけまし             授けまし

もろかんたちも しかときけ     「諸守たちも     確と聞け

きみはいくよの みをやなり     君は幾代の     上祖なり 

これとこたちの ことのりと     これトコタチの   言宣」 と

ほらおとさして かくれます     洞を閉ざして    かくれます

  

そのうゑにたつ あさひみや     その上に建つ    朝日宮

きみねんころに まつりして     君 懇ろに      祭して

のちかえまさん みてくるま     後 帰えまさん    御出車

ととむるたみお あわれみて     留むる民を     憐みて

みつからまつり きこしめす     自ら政(政治)   聞し召す

  

おもむきつける ききすにて     趣告げる      雉子にて

むかつひめより ことのりし     向つ姫より     言宣し

たかみにまつる とよけかみ     タカミに祀る    トヨケ神

もちこのすけと はやこうち     モチコの典侍と   ハヤコ内(侍)(北の局)

あちことみたり はやゆきて     アチコと三人(の妃)  早や行きて

まなゐのはらの みやつかゑ     マナヰの原の    宮仕え」

ことのりあれは かとてして      言宣あれば     門出して

みやつのみやに あるときに     宮津の宮に     ある時に

きみのみかりに ちたるくに     君の恵りに     チタル国

みちおさためて をさむのち     道を定めて     治む後

やそきねのおと かんさひお     ヤソキネの弟    カンサヒを

ますひととなし           マスヒトと成し

 

またおとこ             また乙子      

つはものぬしと こくみそゑ     ツハモノヌシと   コクミ副え

つほねととめて かえらんと      局 留めて      帰らんと 

(北の局の三人は宮津に留め)

こそよりむかふ そさのをと    去年より向かふ    ソサノヲと

あまのみちねと かとてなす    アマノミチネと    門出なす                    

ねなとやよひの もちよりそ    ネナト弥生の     十五日よりぞ 

(ネナトの年 三月十五日から)

うつきのもちに かえります    卯月の十五日に    帰ります 

(同年 四月十五日に帰り着いた。)

 

ひのはやひこに みことのり    ヒノハヤヒコに    御言宣  

なんちくにゑお うつすへし    「汝 国絵を      写すべし」

やまとめくりて みなゑかく    ヤマト巡りて     皆 描く

 

きみはみやこお うつさんと   (天)君は都を     移さんと

おもいかねして つくらしむ    オモヒカネして    造らしむ

なりていさわに みやうつし    成りてイサワに    宮移し

 

ここにゐませは むかつひめ    ここに居ませば    向つ姫

ふちおかあなの おしほゐに    フチオカ端の     オシホヰに

うふやのみみに あれませる    産屋の耳に      生れませる(生まれる)

おしほみのみこ おしひとと    オシホミの御子    オシヒトと

いみなおふれて かみありの    斎名を告れて     神生りの

もちゐたまえは たみうたふ    餅飯 賜えば      民 歌ふ

 

さきにもちこか うむみこは    『先にモチコが    生む御子は  

ほひのみことの たなひとそ     ホヒの尊の     タナヒトぞ

はやこかみつこ           ハヤコが三つ子

たけこ おきつしまひめ    一はタケコ     オキツシマ姫

たきこ ゑつのしまひめ    二はタキコ     ヱツノシマ姫

たなこ いちきしまひめ    三はタナコ     イチキシマ姫

しかるのち あきこうめる    然る後       アキコが生める(生んだ)

                                              

たたきねは あまつひこねそ    タタキネは     アマツヒコネ

しかるのち みちこかうめる    然る後       ミチコが生める

はらきねは いきつひこねそ    ハラキネは     イキツヒコネ

とよひめは ねのうちめにて    トヨ姫は      北の内侍にて 

ぬかたたの くまのくすひそ    ヌカタダの     クマノクスヒ

みこすへて ゐをとみめなり    御子すべて     五男三女なり』

 (アマテル八人の皇子) 

  

さのとのに            南の殿に

たちはなうゑて かくのみや     植えて      橘の宮

きにさくらうゑ うおちみや     東に植え     大内宮

みつからまつり きこしめす    自ら政       聞こし召す

あまねくたみも ゆたかなり    あまねく民も    豊かなり

 

つきよみのつま いよつひめ    ツキヨミの妻    イヨツ姫

うむもちたかは いふきぬし    生むモチタカは   イフキヌシ

  

さきにたらちを はなきねは    先にタラチヲ    ハナキネは

ねのくにさほこ しらすへし    「根の国サホコ   領すべし」

いまたひること みくまのの    いまだヒルコと   御隈野の

とみかたすけて のちのきみ    が助けて     後の君

 

なちのわかみこ ぬかたたよ    ナチの若御子   ヌカタタよ

いさなみまつる          イサナミ祀る 

 

くまのかみ しこめかしゐお    隈の神      鬼霊

からすかみ まつれはくろき    枯らす神      祭れば黒き

とりむれて からすとなつく    鳥 群れて      ”カラス” と名付く

  

いさなきは あつしれたまふ    イサナギは     篤しれ給ふ

ここおもて あわちのみやに    ここを以て     アワヂの宮

かくれます ことはおわれと    かくれます     言は終われど

いきおひは あめにのほりて    勢ひは(和つ君となり) ’に上りて 

をおかゑす            陽を還す(巡らせる)

あひわかみやに ととまりて    太陽若宮‘ に     留まりて

やみおたします たかのかみ    病みを治します    治曲の神

  

やまとやすみや ひきうつし    ヤマトヤス宮     引き移し(ヤス宮に移り)

あめやすかわの ひるこひめ    アメヤスカワの    ヒルコ姫

みこおしひとお ひたします    皇子オシヒトを    養します(養育)

ねとさほこくに かねをさむ    (国)とサホコ国  兼ね治む

    

したてるひめと あちひこと    シタテル姫と     アチヒコと

いせおむすひて もろともに    妹背を結びて     両共に

ここにをさめて うむみこは    ここに治めて   生む御子は

いむなしつひこ          斎名シツヒコ(いみな)

あちからをかな          タチカラヲかな

 

全体をまとめてみましょう。

アマテル神、中宮セオリツ姫と十二后

 ウビチニ歴(天神四代目)から二十一鈴の百二十六枝、年はサナトの弥生一日、ヒタカミの国(現在の仙台市多賀城付近)からお戻りになられたアメミコ(アマテル神)は、新しい宮居にお移りになりました。

 アメミコはご誕生以来十六歳までここハラミの宮のご両親(イサナギ・イサナミ)のもとでお育ちになりましたが、十六歳なった時、祖父(母方の父)のトヨケ神(豊受神・伊勢外宮祭神)の坐すヒタカミのヤマテ宮(仙台宮)に行き二十八歳の今日まで、天成道(あめなるみち・帝王学)を学ばれておりました。
 両神(ふたかみ、イサナギ・イサナミ)の詔(みことのり)が諸神に伝えられ、ヤソキネ(豊受神の子)を中心に、天子のお后選びの神議(カミハカリ)が進められました。

 全国の国神(くにかみ)の姫の中から、日の神アマテラスを中心に十二人の妃として、月に例えて十二月として東・西・南・北の四方に各々配しました。

その位は上位よりスケ(典侍)、ウチメ(内侍)オシモ(御下)の三階級としました。
 十二后を立てたそもそものわけは、ワカヒトの三代前の祖神(おやがみ)第六代天神オモタル・カシコネに世嗣子(よつぎこ)が無いばかりに、一時期政(まつり)が途絶えて国の平和が乱れてしまったことの反省から、イサナギ・イサナミにより決められたのでした。

 十二后達は、天君(あまぎみ)を真中の「太陽」とし、東・西・南・北に「月」を配して三人づつ代わる代わるお仕えし、皆それぞれ機織(はたおり)をしておりました。

北局(ネのつぼね)にイサナギの弟君クラキネの娘が決まり、姉のマス姫モチコがスケ(典)后となり、妹のコマス姫ハヤコはウチメ(内侍)に、カダの娘アジ子はオシモメ(乙下侍)となりました。

次に

東局(キのつぼね)のスケ后にはヤソキネの娘オオミヤ姫ミチコ、同じくヤソキネの娘タナバタ姫コタエはウチ后にツクバハヤマの娘ソガ姫は東(キ)のオシモ后です。

南局(サのつぼね)のスケ后は前々から評判のサクラウチの娘、名(な)をサクナダリ(瀧落降渓流)セオリツ姫ホノコ、その妹のワカ姫ハナコはウチ后に、カスヤの娘イロノエ姫アサコがオシモ后です。

西局(ツのつぼね)のスケ后はカナサキの娘ハヤアキツ姫アキコ、ウチ后には宗像一族のオリハタ姫オサコ、同じく宗像一族のトヨ姫アヤコがオシモ后です。

本来、姫を迎えて品定めをする時は殿前(トマエ)でお目通しするのがしきたりとなっていましたが、セオリツ姫ホノコの時はアマテル自ら階段(キザハシ)をお降りになり、姫の前に立たれて迎え入れたほどです。

さくなだりとは、岩を割いて流れ降る清い渓流を意味します。自ら階段(キザハシ)をお降りになったことに因んで天下る日前向津姫(アマサガルヒニムカツヒメ)と申します。

 君はご自身の坐す内宮(うちみや)に入れて共に暮らす詔(みことのり)して世に触れました。
 これが、中宮制度の初まりとなりました。
 
 セオリツ姫が中宮に上られた後の南(サ)のスケ后の後任にはカナヤマヒコの娘のウリフ姫ナカコを起用して備えとしました。

カナヤマヒコは古中仙道(こなかせんどう)を拓いた有力者で娘のウリフ姫の名前は、暦の閏月(うるうづき)を表わす語源となり今日に伝えられています。
 日の神アマテルの御世は、神のご威光が国のすみずみにまで照り、人々の暮らしはますます豊かに平和が長く続きました。

 ある日のこと、ミヤズ(宮津宮、現在の丹後一宮籠神社、コノ)から急使が飛び来て、トヨケの伝言をアマテル神に伝えました。

アマテルは丹後のマナイガ原(現在の比沼麻奈為神社、ヒヌマナイ)に御幸され、トヨケの神と再会を果たしました。トヨケはアマテルに言葉をつくしてねぎらった後に、最後の言葉を伝えました。
 天君には、天成道(アメナルミチ)の全てを語り伝えたが、最期の道奥(みちのく・奥伝)を授けようと待っていたのです。

 天君と諸神達に、『君は幾世の皇祖(みおや)なり』 これこそがクニトコタチ最期の詔であるとの遺言を残し、洞を閉ざしておかくれになりました。

 君は磐境(いわさか)を築いてねんごろに神葬祭をし、その上にアサヒ宮を建てるとアサヒ神の称名をトヨケに奉りました。

 四十八(ヨソヤ)夜の喪祭(もまつり)も明けた後に、君は宮にお帰りになろうと出発の準備に取りかかると、聞きつけた民が君の御手鳳車(ミテグルマ)につきすがり、出発を止めようと集まって来ました。

素朴な民の心根を憐れんで、後10年ほどこの地に止まり自らまつりごとを執ることになりました。

 この事情を急使の伝言で知った中宮セオリツ姫はアマテル神に代わって詔のりを発し、ヒタカミ国にトヨケ神を斎(いつき)祭らせ、北(ネ)の局のモチコのスケ后とハヤコウチ后、アヂコオシモの三局(みつぼね)に、マナイの原に行きて宮仕えするようにと送り出しました。

 こうしてサホコチタル国(山陰地方)も無事治まり平和な国となりました。

それを見届けけたアマテルはソサノオとアマノミチネを随神(ずいしん)にして弥生(やよい)の十五日に帰路につき卯月(うつき)十五日、ハラミノ宮(現・富士宮市浅間神社)にお帰りになりました。

ハラミノ宮に戻ったアマテルは、ヒノハヤヒコ(鹿島神宮祭神・タケミカヅチ)に次のような詔のりを出していました。

 「汝、国絵を写すべし」 (全国の地図の作成)

 ヒノハヤヒコはヤマトをくまなく巡り、絵地図を描いて奉りました。 君は早速この地図を参考にして都を遷そうと計画され、オモイカネ(アマテルの姉ヒルコ姫の夫で右大臣)に命じてイサワ(伊雑宮、三重県志摩郡磯部町)宮を造営させることしました。

(アマテルと8人の皇子)

 ここイサワにてセオリツ姫がフジオカアナ(藤岡穴山)のオシホイ(現在の伊勢外宮宮城内、下御井神社、別名忍穂井神社)の縁(みみ)に産屋(うぶや)を造ってご出産になられ、生まれた皇子をオシホミミ(齋名(イミナ)オシヒト)と名付けました。

 ・オシホミの御子のオシヒトという斎名を告げて、モチヰ(餅飯)を配ると民が歌った
  ・「先にモチコが産む御子は、ホヒの尊タナヒト※
  ・ハヤコが三つ子を産んだ (後の宗像三女神)
  ・一にタケコ※オキツシマヒメ
  ・二にタキコ※エツノシマヒメ
  ・三はタナコ※イチキシマヒメ
  ・然る後にアキコが産んだタタキネ※は、アマツヒコネ
  ・然る後にミチコが産んだハラキネ※は、イキツヒコネ
  ・北のウチキサキのトヨヒメが産んだヌカタダ※は、クマノクスヒ
  ・御子すべて、五男三女なり」
・なお、イサワの南の殿には、橘を植えてカグノミヤ(橘の宮)とした
 ・東には桜を植えてヲウチミヤ(大内宮)とした
 ・大内宮ではアマテル自らが政を執り、あまねく民に知らせて豊かに治めた

ツキヨミの妻はイヨツヒメという
 ・二人の子はモチタカ、またはイフキヌシ※という

以前、タラチヲ(父)のイサナギはこう申した
 ・「ハナキネ(ソサノヲ)はネノクニ・サホコを領すべし」
  ・これは、”今、ヒルコとミクマノの臣によって統治される熊野の後の君となれ”ということである
 ・「ナチの若御子のヌカタタ※(クマノクスヒ)は、イサナミを祭るべし」
  ・これにより、ヌカタタイサナミ(クマノカミ)の祭主となった

ヌカタタ:アマテルとトヨヒメの御子で、『記紀』でいうクマノクスビに当たる

  ・なお、クマノカミ八人の鬼霊(シコメ)を使って人の魄(肉体)を枯らす神である
  ・この神を祀ると黒い鳥が群れたので、この鳥は“カラス(枯らす)”と呼んだ
イサナギは一通りの指示し終えると、アワヂノミヤにお隠れになった。
 ・君としての役目は終えたが、天に上って陽霊を還すアヒワカミヤ(太陽分宮)に留まった
 ・そして、病気平癒のタガノカミ(治汚の神)となった。

ワカ姫ヒルコはヤマトヤス宮からアメノヤスカワに遷って、皇子のオシヒトを養育した
 ・また、ネ国とサホコ国を同時に兼ね治めた。
・ここで、シタテルヒメとなったヒルコは、アチヒコ※(オモイカネ)と妹背(いせ)を結んだ(結婚した)
 ・そして、共にネ国とサホコ国を治めた。
 ・また、二人が生んだ子は、斎名をシツヒコという、タチカラヲ※のことである。

ヒルコ:イサナギとイサナミの第一子であり、『記紀』でいうヒルコに当たる。
・シタテルヒメ:当初は”オシホミミを守り育てる姫”の意を持つヒルコの別名であり、後にオクラヒメに世襲される。
・アチヒコ(オモイカネ):タカキネの子で、ヒルコと結婚した。イサワ宮を造営し、暦を発布するヒヨミとなったとされる。
・タチカラヲ:オモイカネとヒルコの子で、種々の活躍をする。『記紀』でいう(アメノ)タヂカラオに当たる。

 

 この様に一点の曇りもない君(きみ)、臣(とみ)、民(たみ)の平和な国も歳月が過ぎるに、満つれば欠けるの喩えの如く、やがてむら雲の沸き起こることとなったのでした。

 

(以下次章 シラヒト・コクミの大罪)

 アマテル神の弟ハナキネ(ソサノオ)がこともあろうに天君の后の北(ネ)の局に入り侵り、スケ后のモチコと妹のハヤコの居る大内宮(オウチミヤ)に入り密通に明け暮れる事となったのです。

 ある日二人を内宮(うちみや)にお呼びになり、二人共北(ネ)の局を解任して、しばしの暇(いとま)を言い渡し、後任にはムナカタの娘のもと西(ツ)のオシモのトヨ姫を据えました。

 大内宮(今でいうところの謹慎処分)に下って嘆き恨むモチコとハヤコに同情したソサノオは義憤に狂い、剣を取り駆け出さんとするのをハヤコが押しとどめソサノオにこのように耳打ちしました。

 「功(いさおし)ならば天(あめ)が下(した)」(手柄を立てるなら、天下を取れ)

 これは、中宮セオリツ姫への恨みを募らせた執念と嫉妬心が、ソサノヲにクーデターをするようそそのかしたのです。
 そのやり取りを偶然来合わせたハナコの悟るところとなりました。
 ハナコは、姉セオリツ姫に一部始終を告げましたが、聡明で心優しいセオリツ姫は何とかこの難局を良い方向に解決しようと思いを巡らし、アマテル神がヒタカミのタカマガハラ(現仙台多賀城市付近)に御幸された後に、モチコ、ハヤコをお呼びになり諭されました。

 二人にはウサ宮(現在の宇佐神宮)に行って、反省して、罪を償えば私がきっと局に復帰できるよう計らうから時の来るのを待つよう言い渡しました。

 又、モチコの生んだタナキネは、男児は習わしに従いこの宮で教育すること、ハヤコの生んだ三姉妹(タケコ、タキコ、タナコ)は母自ら養育するようにと諭されウサ宮へと下ることになりました。

 ウサでは、アカツチが両人と三女をお迎えするための宮を改築して、迎えましたが、モチコ、ハヤコは三女の養育を放棄したまま出奔してヒカワ(現・斐伊川・出雲)に向かい流浪姫(サスラヒメ)となりました。

(大祝詞に出てくるハヤサスラ姫は、ハヤコが根の底の国に堕ちた時の名前)

 もともとモチコ、ハヤコの父クラキネは、おそれおおくも、ネの国(北陸一帯)とサホコチタル国(山陰地方)を統治する有力な貴族でした。

 モチコ、ハヤコにとっては、自分達より身分の低いセオリツ姫の中宮への昇格でした。

また、モチコが先に生んだタナヒトが日嗣(ひつぎ)の皇子(みこ)として皇位を継承されるべきはずと考えていたものの、皇位を継ぐ皇子に付けるヒト(仁)の名も与えられずタナキネとなったこと、ムカツ(セオリツ)姫の子にはオシヒトとヒトの字を冠したことで、一方的に我が子の皇位を奪われたたとの思いが嫉妬と憎悪を産んだのでした。

 モチコ、ハヤコにとっては、「我等が家系はムカツより上、父クラキネは、国の開拓神イサナギの弟君である。ムカツは鏡の臣(かがみのとみ)とはいえ、出自は一国神(いちくにかみ)にすぎない。身分の低い者に指図を受けるとは、たとえ君の寵愛を受けていようが、我等に非があろうが、血統(シム)の道が許せぬ」との一方的なおもいで溢れていました。

 ヒカワには、命を助けてやったシラヒト、コクミがいる。一族郎等組んでムカツに仕返ししようと考えたのです。

 ソサノヲについては、アマテル神がミヤズノ宮で一時期政務(まつり)を執っていたある日、ソサノオが祖父トヨケを祭るマナイガハラ(真名井原)のアサヒ(朝日)宮に天君の名代として詣でた折り、参拝する美しい手弱女(たおやめ)に目を止めて、侍者にどこの誰かを尋ねました。

 「アカツチノ命のハヤスウ姫(早吸日女神社・大分佐賀関町)です」との答えました。 早速しきたりに従いツクシ(筑紫)のアカツチ宮に勅使を飛ばして姫との結婚を申し込んだものの、日頃の悪事や乱暴狼藉なふるまいが災いして、神議(かみばかり)の末、今だ保護観察の身分で熊野の大臣、早玉雄(ハヤタマノオ)と事解雄(コトサカノオ)の元にあり、結局独立の宮も許されていないため、この結婚話はまとまりませんでした。

 失意の底に悲痛な日々を送り、情を求めてモチコ、ハヤコの局に通い詰めたのが今回の事件の発端でしたが、唯一の理解者であったモチコ、ハヤコは自分が原因で流浪となってしまったことでソサノオは更に荒れ狂いました。

 年中行事で最も大切な新嘗祭(にいなめさい)用の苗代(なえしろ)に重播(しきまき)して神田をだめにしたり、田に駒を放って暴れさせ、畔道(あぜみち)を壊して稔りを台無しにしたりの悪事の数々を繰り返していました。

 神聖な新嘗祭で君がお召しになる神御衣(かんみは)を織っている斎衣殿(いんはどの)の戸に糞尿を撒くやら悪事は尽きることなく、挙句に殿の屋根を破って斑駒(ふちごま)の皮を剝いでを投げ込むという暴挙をしでかしました。

 真下で一心に機織をしていたハナコの頭上に馬が落下して驚き動転したハナコの手に持つ梭(ひ)がほと(陰部)を突きなくなってしまいました。

 「ハナコが神去りました」と、泣きわめく姫達の悲しみの声を聞きつけて、今まで寛容にふるまっていたアマテル神もついには語気を荒げソサノオを叱責したのでした。

 「天成る道を教えるこの歌を味わって反省せよ」と言って、次の歌をお与えになりました。

あめ(天)がした(下)  やわしてめくる(平和に巡る)ひつき(日嗣)こそ
はれてあかるき  たみのたら(両親)なり

 ハナコ姫を傷つけて死なせた決定的な悪事を最後に、高天(たかま・宮中)では諸神(もろかみ)による神議(かみばかり)が召集され決議によりソサノオの罪状が言い渡されました。

 罪科はかつてない厳しいもので、一般には天の巡りの三百六十科が死罪と決まっていますが、ソサノオには、その三倍の千科(チクラ)の死刑が科せられました。この三折死(ミキダガレ)とは三回死ぬほどのむごい刑死をいいます。

 刑が序々に執行され、髪も抜かれ、爪も剥(は)ぎ取られつつある時です。突然、セオリツ姫の勅使から急な知らせが告げられました。

 「ハナコの御霊(みたま)は、ウケモノ(倉稲神・うけみたま)に祈り、魂の緒が切れることなく無事天にお返り(戻り)しました。ソサノオのハナコ殺しの四百科はこれにて償われました。

 更にセオリツ姫より、「ソサノオの性格は生まれついでのものです。情状酌量により減刑してやれないものでしょうか。」とのお言葉がありました。

 妹を失った悲しみを乗り越え罪人の減刑を真剣に乞う慈悲心こそが、若きアマテル神を自ら階段(キザハシ)を降りて手を取ってお迎えしたセオリツ姫の高貴な慈悲の心にあったのです。

 

(後記)
 ここに登場する姫神(ひめがみ)達の物語はまだまだ続きますが、幸薄きハナコの伝えはこれ以降出てきません。

 奈良県桜井市に稚桜(わかさくら)神社がありますが、ここがハナコの父、鏡の臣(左大臣)の桜内命(さくらうち)が亡き末娘の為に屋敷内に築いた手向けの杜(たむけのもり)なのかもしれません。

因みにさくらうちを称える歌に、
 左は谷のさくらうち 御世の桜の 太平歌(ならしうた)

 この歌の谷は地名で、現在も稚桜神社は谷町に祀られています。 又姉のセオリツ姫を祀る佐久奈度(さくなど)神社も旧名を桜谷社といい、いずれも桜と谷の関係を伝承しています。

桜井市という名もこの小さなお社に有る日本最古といわれる桜井の井戸から名付けられました。

 

まとめ

ホツマツタエでは、アマテルの時代まではスス暦(鈴暦)が使われ、神武以降はアスス暦がつかわれます。

年代の数え方: 一穂:一年  六十穂:一枝  6千穂:百枝  6万穂:千枝が一鈴

つまり、一鈴6万年

今回のはなしの時間推移は、サホコ・チタル国を安定させ豊かな暮らしが8万年以上続いたことになっています。アマテル神の統治時代の出来事でした。

この時の天津神たちの寿命は数十万年単位で書かれています。この辺りをどう理解してよいのかはいろいろ意見が分かれているのが現状です。

統治が、天津神から国津神そして現人神(あらひとかみ)へと変わっていく段階でどんどんと寿命が縮んでいきます。

それは、やがて獣の肉を食するようになり 隈の神:くまのかみ(鬼霊)が:しい(人間の体や血)を枯らす神であったり、第10代天津神のニニキネが、妻コノハナサクヤ姫の姉イワナガ姫を醜いが故にないがしろにしたことによるカグヤマツミの呪いであったりします。

コノハナサクヤ姫は繁栄を象徴し、イワナガ姫は長寿を反映していると言われます。

イワナガ姫は、一度は嫉妬と怨念によりオロチとなり、最後はソサノヲによって魂の緒を切られて死んだコマス姫ハヤコですが、カグヤマの娘として転生したものの妹のコノハナサクヤ姫に対する強い嫉妬にまみれた呪いのせいかもしれません。(コマス姫ハヤコ:大祓の祝詞に出てくる祓戸の四神の一人ハヤサスラ姫のこと)

この頃の天神たちの寿命をどう解釈したらよいのかは誰しも考え込んでしまうようです。

天津神であるが故に長寿である・・というのは分かります。 その後神名が継承されて人間がその役職(役割)をも継承するに従い寿命が短くなっていったというのもわかります。

このことに関して、正統竹内文書の竹内睦奏氏はチラリと次のようなことを語っていました。

そもそも天津神のルーツは異星人で現在の私たちと比べると恐ろしく長寿命であったそうです。

そう言えば、ロズウェルUFO墜落事件に伴うET文書『エイリアン・インタビュー』のマチルダ・オードネル・マックエルロイがエイリアンから得た情報として、彼らの寿命は数十万年とも言っていましたね。(肉体年齢かどうかはわかりませんが・・)そして、何万年も前から地球に来ていたとも・・。

このあたり、皆さんはどう考えますか?

 ( マチルダ・オードネル・マックエルロイ:ロズウェルUFO墜落事件の時、生きていたエイリアンとのテレパシー交流のため調査団のメンバーに入れられ、多くの調査文書の作成にかかわった女性軍人。調査終了後は除隊させられ、高額な軍人恩給と身の安全と引き換えに秘密の厳守を強制されたと語っている。身の安全というと聞こえはいいですが、秘密をばらせばどうなるか保証できない・・という事だそうです。アメリカ政府というのは昔も今も本当に怖いですね。)

 

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