大阪府交野市、糸吉神社と機物神社。

古史古伝と古代神道

大阪府交野市にある ” 糸吉神社 ” は、一体どんな神社なのか!

 糸吉神社と機物神社

大阪北東部の交野市(かたのし)にある ”源氏の滝” は結構有名なところだと思います。

その入り口には、高天原本宮奥津宮神社があり、その向かい側には ”白寿観音菩薩” 源氏の滝のすぐ横手には ” 不動明王堂 ” があり、右手には ” 糸吉稲荷大明神 ” の鳥居があります。

西側数百メートルほどの場所には、機物神社(はたものじんじゃ)もあり、毎年七夕の行事にはたくさんの参拝者が訪れています。

 

源氏の滝周辺

 

機物神社(はたものじんじゃ)について

 

機物神社・本殿鳥居

 

御祭神

天棚機比売大神(あまのたなばたひめおおかみ) 栲機千々比売命大神(たくはたちちひめおおかみ)  地代主大神(とこしろぬしおおかみ) 八重事代主大神(やえことしろぬしおおかみ)

真東にそびえる交野山(こうのさん)と太陽の位置関係で、ある特殊な日に特別な現象が起きることに着目して大陸から呪詛祭祀(じゅそさいし)の習慣を持ち込んで、祭祀の場を「堂(くつ)」と言う神堂を設けたのが創まりではないかと言われています。 これは、秦一族の事です。

 

特別の日の特別な現象とは、冬至の日に、機物神社の境内から交野山(こうのさん)に重ね合わされた日の出が見られることです。
このために、この場所は特別に神聖視された祭祀の場所となったようです。条件がよければ、冬至前後の数日間は交野山山頂に日輪が光り輝く直前に交野山の裏側に白道(しろみち)(白い光の帯)が奔り、朝日山を鮮やかに浮き立たせる現象を一瞬見ることができるようです。

 

伊勢神宮へ向かう、機物神社の東の鳥居

 

機物神社は、もともと機織りを生業とした帰化漢民族(秦氏一族)の祖先を奉った宮ですが、平安時代になるとこの辺りは狩りを楽しんだり、詩歌を詠んだりする宮人たちの行楽の地となっていた。

当時、彼らの間で盛んだった天体崇拝思想や文学的趣味から、その祭神は転じて織姫星となって現在まで受け継がれています。

 

この機物神社は、一般的な系列や分子・分霊などのある全国的なものではなく、倉治(ここの地名)と言えば機物神社・七夕伝説である「織り姫」を奉ってある珍しい ” 一国一城 ” の神社です。全国唯一という訳です。

祭り事は、歳旦祭・祈年祭・春祭り・七夕祭(毎年七月六日・七日)・秋祭り・新嘗祭・大祓式年2回(夏越の大祓と年越の大祓)・七五三・宮参り などがあります。

七夕祭りのときは、たくさんの短冊のついた笹竹が境内に一斉に並べられ隣接の道路が車両通行禁止となり、大勢の人たちでにぎわいます。

因みに、この短冊は事前にこの地域一帯に配られた色とりどりの短冊に自分の願い事を書いて町内ごとに回収し、神社に納められます。(家族の人数分だけ短冊が配られるのです。)

  祀ができる以前は交野山(岩屋)そのものが、機物神社の御神体であり誠に広大な地域を有していました。

 

糸吉(いとよし)神社(糸吉大神:いとよしのおおかみ)とは、どんな神社なのだろうか。

 

機物神社の境内にある鳥居の内のひとつ(東の鳥居)は交野山と伊勢神宮の両者(東)に向かって参拝できるように設計されており、鳥居、交野山、伊勢神宮と東に向かう直線状の少し右手(南側)に糸吉神社は配置されています。

  高天原本宮奥津宮神社 を越えて小道を少し入ると、右手の小川の際に南北に向いた一の鳥居が立っています。 

この鳥居は、小川を渡り次の鳥居へと続く橋へと案内されています。

 

糸吉大神 一の鳥居

 

橋を渡り、地道へと進むと ” 糸吉稲荷大神 ” への参道の入り口となる赤い二の鳥居が見えます。

あまり広くはないこの石段には手摺がないので、私のように足の不自由な方は杖又はストックがあると安全です。枯草も多いので足を滑らせてしまわないよう注意が必要です。

 

糸吉稲荷大神・拝殿への参道

 

鬱葱とした木々に囲まれた石段を70~80メートルほど登りきると、 拝殿が建っています。

 

拝殿から見える祠

 

挨拶をし参拝をした後、奥の方を覗いてみると、更に石段がありその上には小さな祠があります。

ご祭神が祀られており、白狐が守護されているようです。

この糸吉神社についての情報は極端に少なく、その謂れ等詳細は分かっておりません。

配置上、機物神社の本殿から参道・鳥居の延長線上(東:交野山方向)にあり、高天原本宮奥津宮神社と共にそのすぐ後ろの交野山(こうのさん)を守護しているかのようです。

 

高天原本宮奥津宮神社・社務所

 

この神社の真後ろ、東100mほどの位置に糸吉神社があります。

 

高天原本宮奥津宮神社 の祭神として 、 古事記にも登場する世界を生み出したとされる八柱の天津神が祀られていることから、分祀・分霊の関係にあるのではないかと推察されます。

 

神租八神を祀る

 

交野山(こうのさん)

 

交野山(こうのさん) は、その昔修験道の行者が苦行を重ねた場所でもあり、神聖なところとされています。

その頂上には、河野山観音岩がそびえており太古の昔からその裾野に住む村人たちを守護してきた守り神として現在も信仰の対象となっており、糸吉稲荷神社は高野山の守護神社として建立されたのです。

機物神社は、秦氏由来の機織りと関係しておりこの地域が織物に深い関係を持った土地柄であることを示しています。

 

古代日本において織物は非常に貴重なものとされており、古事記においても機織りは ” 天神(機織りの神:ワカヒルメ神) ” の重要な役目であったとされています。

 

参考:ワカヒルメ神は、機織りの神であり一説ではアマテル大御神の妹神 と言われています。

(ホツマツタヱでは、天照大御神は、男神です。) 

このワカヒルメ神は神功皇后を手助けするなど単なる織工の神ではありません。祈雨、健康長寿、商売繁盛、子宝安産、縁結びなど万能の神とされています。

名前からは太陽の女神ともいわれているが、記紀においては「機織り」「海」とかかわりがあるようです。

ホツマツタヱにおいては、事実上 長子のアマテル大御神 より先に生まれていたものの、イザナギとイザナミの厄年に生まれた子(ヒルコ神)であったため、葦船に乗せられ川に流され重臣「カナサキ夫妻」により育てられました。無事にすくすくと育った後に、本宮に迎え入れられ妹神「ワカヒルメ」と名乗ることになりました。

ワカヒルメは 高天原の機織り小屋で働いていた時、スサノオが狼藉を働き皮をはいだ馬の首をこの小屋に投げ込み、それに驚いて転倒し持っていた道具の梭(ひ)で体をつき死んでしまったとされています。

ワカヒルメの死とは、スサノオに辱められ神聖でなければならない巫女神の穢れを意味していると、竹内文書では伝えています。(このようなスサノオの乱暴・狼藉に怒ったアマテラスが後の天の岩戸隠れ事件を起こすことになる。)

 

糸吉稲荷神社 もまた、稲荷信仰のあった秦氏由来であるようです。

”糸吉大明神” という名から、糸・結びなど機織りもに関連していると推察されますが、もう一つ気になる事がありました。

それは、糸と吉を並べて読むと、結(むすび)となります。

 

石段の手前で、祝詞を奏上しそこから先へ進むためのお願いをしてから、赤い柱のあるところまで進んでみました。

 

”糸吉の大神”  の御神体

 

御神体の鏡  (気持ちとして、お神酒をお供えさせていただきました)

 

御神体として祀られていたものは、鏡(かがみ)です。つまり、八咫鏡(やたのかがみ)ではないかと思います。

 

「結び」、そして「八咫鏡(やたのかがみ)」が示すものとは、

 

正統竹内文書の著者で、第七十三世武内宿禰を継承する竹内睦奏氏によると、結びとはぎゅっと固めて形(象:かたち)を成すものと表現されていました。

それは、陽から陰へと転換し凝集現象化、宇宙となり神の顕現 を言い表したものであると考えます。

八咫鏡とは、その相転換の境界面ですべてを生み出した神そのものです。

三種の神器(みくさのかむたから)の一つであり、天照大御神が持つ神宝(かむたから)であります。

糸吉大神(いとよしのおおかみ)とは、記紀の天地開闢(てんちかいびゃく)にも描かれている 「別天津神(ことあまつかみ)」のことではないのかと思います。

そして、二体のお狐様が両脇に鎮座し眷属として仕えているのです。

糸吉神社に向かって手を合わせると東に向かうかたちで、機物神社の御神体でもある交野山、そしてその延長上にある伊勢神宮へ向かい手を合わせることになります。

源氏の滝のあるこの「交野山(こうのさん)」が 修験道の行者の修行場所でもあり神聖なところとされていること、 別天津神 を祀りその守護神としての稲荷神社ということで、天地開闢・天孫降臨と深い関係があるのかもしれません。

 

天孫降臨 ? と不思議に思う方もいると思いますが、竹内文献によると 造化三神のいわゆる「天神七代」(年代不明~数億年前)が終り、「神皇二十五代」(数億年前~約5万年前) までの人類租の時代に、地球の地殻変動や大規模災害などで度々人類はほぼ絶滅に近い状態となり、その度に神たちは ” 再降臨 ” を繰り返していたのです。

 

人類再興のために、神たちが ” 降臨 ” したとされる場所は、日本全国至る所にあります。 そして、 神皇二十四代 に最後に降り立った場所が九州・高千穂だと竹内文書には書かれているようです。

 

(参考):因みに、朝鮮半島の白頭山にも降臨されと書かれています。この時現住していたのは原日本人(日本本土から移住した古代縄文人)で、その後九州地方や出雲方面へと移住した。現在の朝鮮半島の民族は、かなり後の時代に大陸(内部)から南下移住してきた少数民族であることなども竹内文書には記されている。

糸吉大神 一の鳥居 からのんびり歩くこと1分、源氏の滝のすぐそばには、不自然にも感じるほどの巨石が転がっています。その下を清流が流れ、時には幼い子どもをそこで遊ばせている涼やかな光景もありました。

周囲は木々の枝に囲まれて、独特な空気感を醸し出しています。

ほとんど人が訪れることが無いようにも思える糸吉稲荷大神神社ですが、糸吉の ” 結び ” に関して、独断的且つ希望的意見として、” しっかりと未来永劫離れない縁結び ” の御利益も期待できるのではないでしょうか。

また、毎年四月十日には商売繁盛をお稲荷さんに祈願する祭り事が行われています。

絵馬やその奉納場所はありませんが、拝殿にひっそりと願いを込めてみるのもいいかもしれません。

ここまで来たのなら、ちょっと足を延ばして・・・

 

源氏の滝・不動堂・白寿観音菩薩

 

不動尊

 

源氏の滝のすぐそばには、「滝の不動さん」「やけ不動」と呼ばれ親しまれている不動明王が祀られた宝形作りの小堂があります。

この不動明王は昔、河野山山頂近くの磐座開元寺に納められていたと言われているが、比叡山延暦寺の末寺であったことから信長の焼き討ちに会った際持ち出されここに納められたものです。

 

ここでは、毎年一月四日と八月四日には願い事を書いた護摩木を燃やし、無病息災を祈る護摩法要が行われています。

 

白寿観音菩薩(神仏習合の名残でしょうか)

 

夜泣き石

 

夜泣き石

 

この辺りは、昼間はとても心地が良く親子連れで散歩などを楽しむこともありますが、夜にはなるべく立ち入らないようすることが地域での暗黙のルールとなっています。

いろいろな意味で危険であり、面白半分で夜中に立ち入って汚したりしてはいけません。

 

源氏の滝

 

源氏の滝は、河野山の麓にある高さ十八メートルの滝で、山腹の白旗池を源流としており、春は山桜、夏は納涼の場として近隣住民に親しまれており、幼児たちが、水に浸かって小魚やカニなどを探して楽しく遊べます。

源氏の滝は、開元寺に由来し元寺滝と呼ばれていたものが訛って源氏滝と変遷していったと言われています。

また、この山で修行を行う修験者たちが身を清めた場所で、滝つぼの傍らに鎮座する大岩には、不動明王を意味する梵字が彫られています。

  

岩船神社

 

磐船神社

 

ここから168号線に入り、南東(奈良)方面へ車で10分程走ると、これまた 巨石が積みあがった 岩戸くぐり で有名な 「磐船 (いわふね) 神社」があります。 天磐船(天浮船)の伝説が残るこのあたりが ” 星の里 ” と言われる由縁もわかるような気がします。

 

岩窟巡りをすると、こんなご守護符がもらえます。

 

ひとこと

今回ご紹介しました糸吉神社に関する事柄は、しっかりとした歴史・資料がなく地域の言い伝えや筆者の個人的な推測が含まれる内容であることをご承知願います。

  

カテゴリー:古史古伝から学ぶ、真・日本古代史!

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