法華経に見る量子物理。① 科学と宗教の根源は同一。

法華経の宇宙観

仏教の経典や古神道の祝詞・ウタヒなどには、空間そして命の成り立ちなどが当時の言葉で表現されている。現代科学だけを信奉している人たちによって眉唾扱いされているこれらの事実に目を向け、その内容を真摯に受け止めなければならない。

 

科学と宗教は同根であること。

20世紀以降急速に進歩を遂げている量子力学について、筆者の見識がどれだけのものかは甚だ疑問ではある。

しかし、最近の研究報告を見る限り生命や空間の本質を語るには、現代科学のみに頼ってはいられない又は宗教の教義のみで考えていてはその本質を見落としてしまうのではないだろうかと考えてしまいます。

科学が求める本質も、宗教が唱える本質も行きつくところは一つであることを踏まえ考察していく必要があると思います。

 科学と宗教の違いはその表現方法とそこに至る道程だけであることと、宗教・宗派においては、固定観念や国家や個人のご都合主義(狭義の解釈)を取り払い、真摯に本質を知りたいと思うことが大切であると思う。

 

 

法華経とは、

法華経』は、大乗仏教の初期に成立した 代表的な経典であり、誰もが平等に成仏できるという仏教思想の原点が説かれている。聖徳太子の時代に仏教とともに日本に伝来した。『ウィキペディア(Wikipedia)』

釈迦の教え(言葉)をまとめた「お経」の数は「8万4千」といわれており、
その中でも、法華経は釈迦の晩年8年間で説かれた教えであるが、大乗仏教の一派(比較的弱小の教団)によって纏められたものと言われています。

 

この大乗仏教の一派(比較的弱小の教団) がどのような教団団体であるかの詳細ははわかってはいないが、独自の理論に基づいた教義体系を持っていたらしい。

 

妙法蓮華経

序品 【じょほん】  から始まり、 

方便品【ほうべんぼん】

譬喩品【ひゆほん】

信解品【しんげほん】

薬草喩品【やくそうゆほん】

授記品【じゅきほん】

化城喩品【けじょうゆほん】

五百弟子受記品【ごひゃくでしじゅきほん】

授学無学人記品【じゅがくむがくにんきほん】

法師品【ほっしほん】

見宝塔品【けんほうとうほん】

提婆達多品【だいばだったほん】

勧持品【かんじほん】

安楽行品【あんらくぎょうほん】

従地湧出品【じゅうじゆじゅつほん】

如来寿量品【にょらいじゅうりょうほん】

分別功徳品【ふんべつくどくほん】

随喜功徳品【ずいきくどくほん】

法師功徳品【ほっしくどくほん】

常不軽菩薩品 【じょうふきょうぼさつほん】

如来神力品【にょらいじんりきほん】

嘱累品【ぞくるいほん】

薬王菩薩本事品【やくおうぼさつほんじほん】

妙音菩薩品【みょうおんぼさつほん

観世音菩薩普門品【かんぜおんぼさつふもんほん】

陀羅尼品【だらにほん】

妙荘厳王本事品【みょうしょうごんのうほんじほん】

普賢菩薩勧発品 【ふげんぼさつかんぼつほん】

以上の28章からなる、集大成の教えと言われています。

ただし、 お釈迦様 本人は弟子に対して教えの内容を書き記してはならないとおっしゃいました。体現し伝えなければならないことを文字にしてしまうと、間違った解釈として後に伝えられてしまうとの事だったのでしょうか。

古神道などの古文書や陰陽道・ヴェーダ聖典など、重要部分については秘密の口伝とされています。

お釈迦様の仏法も、入滅後500年以降はその真意が伝わらない ” 末法の世界 ” になるとお釈迦様自身が伝えているのも頷けますね。

実際お釈迦様入滅後、直系の弟子ですら意見の相違で分かれてしまい、やがて大乗、小乗となり更には実践方法などの違いにより各宗派に分裂していったことからもその意味が理解できるというものです。

よく、お釈迦様が仏教の開祖と言われることがありますが、これは間違っています。

仏教とは、アーナンダ(阿難)を中心として後の弟子たちが書き記した経典をもとに開いたものであって、お釈迦様本人は決して 宗教の教義 として説法をしたわけではありません。

ナイランジヤナー河の畔のセーナー村で 苦行を共にしたコンダンニャ以下五人の修行者 を説法・教化し最初の弟子とったことで、教団の成立のように言われることがありますが、お釈迦様本人にそのような意図はありませんでした。

ただひたすらに、人々に対し 悟りへの道を淡々と 説いていたのです。

分裂・分派した仏教の僧団は、100年毎に結集して戒律上の様々な異端を正していたと言われています。

お釈迦様 の教えの中でも、特に強調され説かれているのが ” 無常 ” についてです。

”妙法蓮華経方便品第二” で説かれている  「諸法実相」 という教えがあります。

 

目に見えるものの実体とは

 

諸法実相論とは、

大乗仏教の真髄といわれる法華経の理論の根本であり、大乗仏教思想全体に大きな影響を与えています。

「諸法実相」とは何か、「諸法」とはこの世界におけるすべての事柄、森羅万象をいい、「実相」とは、真実ありのままの相(すがた)ということです。

私達の目に見える現象界だけでなく、目に見えない潜象界、” 極微の粒子の集合体 ” からなる極大の世界全てが妙法の存在である、これを、現象即実在の世界観と言います。

 

現象界に存在する全てのもの、宇宙にある星々、そこに生きる動・植物、生物・無生物はもとより、潜象界にあって凡夫の目には見えなものすべては、因果の法則(生成流転)によって存在しており、現象界は潜象界の投影

我即ち妙法、妙法即ち我で、妙法と我とは二元対立するものでなく、となって存在するものである。

(””とは、1個体としての人我のみならず、存在を構成している要素の実体すべて・・つまり、物質空間を形作りそこに在り想う者をいう)

諸行無常

「諸行」とは、この世(現象界)のすべての( 形あるものも、形ないものも、
すべての存在そのもの)もの、「無常」とは、常が無い、続かない( 今の状態が、そのまま変わらずに続いていくということはない )ということです。

これは、上記の生成流転を表し、古神道カタカムナウタヒ5首・6首にもある物質空間の成り立ち・循環と相反性、物理学でいうところの対生成・対消滅を表しているともいえるのではないでしょうか。

 

カタカムナウタヒの5首と6首。

ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ

ソラニモロケセ ユヱヌオヲ ハエツヰネホン カタカムナ

 

潜象界から現象界そして元へと戻る、命の循環の説明

詳しくは、「日本」のルーツを考える。カタカムナウタヒが語る世界! 第4首 ~ 8 首。

エネルギーと物質との相互作用

対生成は、高いエネルギーから物質と反物質が生成されることです。エネルギーという目に見えないものから、物質への転換・発現を表しています。

対消滅はその逆で、物質と反物質の反応により物質(質量)が消滅しエネルギーへと変化することです。

物理学ではこれ以上の表現はありませんが、 ” 循環と相反性 ” をあらわしていると考えます。

物理学は、 各種の素粒子(中性微子や中間子などを含む)によって構成される原子、その集合体である分子が諸々の物質を構成要素と考える。

仏教の説く ”種々の微塵”とはこのことであり、 ” 極微の粒子の集合体 ” とは物質の構成を表していると考えられる。

 

宇宙のはじまり具現化とは

 

インフレーションの後のビッグバンによるエネルギーの実体化、そして発現した ” 大我 ” がいくつかの支流となり ” 個 ” に分かれていく。3次元へ実体化したものは、個々に自我を形成し物資として重合し固定化される。

対生成・対消滅により対となって絶えず変化をしていく物質、それは 実体のない ”色” であり ” 空 ” である。

 

「 対生成」「対消滅」 はつまり 「空即是色」「色即是空」という物質界の有様を示したものではないだろうか。

その世界に留め置かれる生命、これはまさに魂が 六道輪廻の中に繰り込まれていく事ではないのだろうか。

 

無我の我

梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(宇宙を支配する原理:ブラフマン)と我(個人を支配する原理:アートマン)が実は同一であること、これはヴェーダ( インドで編纂された一連の宗教文書の総称 )の究極の悟りとされている。

宇宙の全てを司る (宇宙を支配する原理 :ブラフマン )と(個人を支配する原理 :アートマン )が同一であるのなら、当然に ” 我 ” もまた不滅のものでその根本は同一である。

すなわち個人の肉体が死を迎えても、ブラフマンと共にアートマンは永遠に存続するということであり、またアートマンが死後に新しい肉体を得る輪廻の根拠でもあるというものである。 カタカムナでいう命の循環と符合している。

ただし、ここでいう”我”(アートマン)は、法華経でいわれるところの ” 我 ” とは違い個々の自我を指している。また、梵(ブラフマン)は、我を含む妙法そのものを表している。

 

これは、古代の聖人達が神から受け取られたものと言われ、シュルティ(天啓聖典)と呼ばれたもののうち、口伝伝承されてきたとされるヴェーダの教えです。

この ヴェーダ の中の、 ヴェーダ 讃歌 にある タパスの歌 や 宇宙開闢 の歌にも書かれている。

法華経においては、

自我のみにこだわり、その我執( 五蘊 :ごうん)によって自分の存在をがんじがらめにしてしまう(現象界への固定化)ため真実(無常無我)が見えなくなってしまう。

しかしそれらはもともと潜象から現象への投影に過ぎない実体のないものであるから、固執による苦悩のみにとらわれてしまうことになります。

五蘊(ごうん)は、「色・受・想・行・識」” われ思うゆえにわれあり”です。

五蘊 を滅すると、実態もなく思うこともないとなれば行いもなくそれを知ることもない然るに因果を受けることがない、まさに空であり無我となり生も死もない。

釈迦の ” 我、不死を得たり ” の言葉は、その境地への到達を示したものと思われます。

つまりそれら人や人の心の有様はすべてが空であり実態のないもの(五蘊皆空)であるとし、それを滅することで ” 苦( 六道輪廻 ) ” から解放される。

対消滅・対生成(生成流転、循環)より離脱し、より高次元へと偏移していく、、。

3次元ー4次元間の循環に囚われた魂(エネルギー)は解放され、より高次元のエネルギー(5次元以上)と一体化していく。そこに自我はなく、無我の一部である我(われ)となる。

 

潜象界と現象界

五蘊 とは、

物質である体・肉体を意味する色(しき)、心・精神、考えるプロセスをそれぞれ分類した受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)という4つの状態をあらわしたものです。

色(しき)

というのは、物質全般を意味しますが、五蘊の色は特に体 ・肉体 を意味します。

受(じゅ)

は 知覚、 「何かが見える・聞こえる・臭う・味がする・触れていて感じる」という五感で感じることを意味します。

想(そう)

は受で感じ取ったもの事が何なのかということを理解する 認識のプロセスのことです。

行(ぎょう)

は、受・想と来て判断した物事に対して、意思を持って何か行動に移そうとする心の働きを意味します。

識(しき)

は感じたものに対して、それを認識する働きを意味します。

受・想・行・識は、瞬時に起こる一連の状態と考えると良いでしょう。

 

五蘊皆空 「ごうんかいくう」

私たちの心と体(五蘊)というもの、その実体は存在しない「空」であるというもの。

次回以降は、生命と宇宙について考察していきたいと思います。

 

カテゴリー:古史古伝から学ぶ、真・日本古代史!

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