般若心経って何ですか!(2)

般若心経

お経を唱えると、呪文のような効果はあるのだろうか・・?

 仏教典とは一体どんなもの

修行僧ではないごく普通の一般人である私たちにとって、仏教典とは一体どんな意味を持つものなのでしょうか。

どう理解したらよいのでしょうか・・。 お葬式や法事などで聞いたり見様見真似で読んだりはしているけれど、何らかの力があるのだろうか。 

心霊体験者やそれを信じる信じないは別としてこわ~い思いをした時についつい この般若心経を唱えてしまったという方は結構いるのではないでしょうか。

 

 

あるいは、南無妙法蓮華経 だったり、南無阿弥陀仏 かもしれませんね。  それって、 本当に 霊を祓ったりする時に何らかの効果があるのでしょうか。

(1)の続きです、結論を先に言ってしまいましょう。

仏教典ということは、悟りに至るためのお釈迦様の教えを多くの弟子たちが書き記したものということですね。

特に熱心な宗教実践者でなければそのお経の意味すら分からないんですから、不成仏霊と言えど元は普通の人間がそのような説法を聞かされたとしても理解できないでしょうし、言葉そのものに祓いの効果(パワー)がある訳ではありませんね。

そもそも、上座部にしろ大乗にしろ仏教の中には、悪霊とか魔を消滅したり祓ったり浄化させたりするような方法を教えている部分はありません。

 

全ての魂(善悪問わず)が、その本来の姿(神仏の一部である事)に戻り清らかな状態になる事を目指す事、つまり救済されることを目的としているからなのです。

肉体を持つ者も持たないものもすべての魂が仏の教えに耳を傾け安らかな魂へと進化していくための教えなのです。

・・つまり、教科書というわけか~!  

梵語やカタカムナのような、その音や文字そのものに力(霊力)が込められている訳ではないようですね、

しかし言葉には力があります。 この般若心経もその一つであると云われています。

 

そもそも般若心経って何だ。(続きです)

と云うことで、前編では般若心経について少しづつその意味を考えてきました。最も大切な事は、”空(くう)” ”無(む)” を知る事でしたね、今回はその続きを考えてみましょう。

難しい話や解釈は無しで、軽い気持ちでほんの少しだけ”経文”を意識してみましょう。

 

般若心経の全文・・前回同様、まず読んでみましょう。

 

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
(ぶっせつまか はんにゃはらみた しんぎょう)

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ しょうけんごうんかいくう)

度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
(どいっさいくやく しゃりし しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう)

空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相
(くうそくぜしき じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ しゃりし ぜしょほうくうそう)

不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中
(ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん ぜこくうちゅう)

無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
(むしき むじゅそうぎょうしき むげんにびぜっしんい むしきしょうこうみそくほう)

無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽
(むげんかい ないしむいしきかい むむみょうやく むむみょうじん)

 

乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
(ないしむろうし やくむろうしじん むくしゅうめつどう むちやくむとく)

以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
(いむしょとくこ ぼだいさつたえ はんにゃはらみったこ)

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
(しんむけいげ むけいげこ むうくふ おんりいっさいてんどうむそう)

究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
(くうぎょうねはん さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ)

得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい こちはんにゃはらみった)

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
(ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ)

能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
(のうじょいっさいく しんじつふこ こせつはんにゃはらみったしゅ)

即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
(そくせつしゅわっ ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい)

菩提薩婆訶 般若心経
(ぼじそわか はんにゃしんぎょう)

 

解説・・考えてみよう・・・の続き。

 

是故空中

ここに至るまでの経文の書き示すことについて、すべては「空」にある。

無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

五蘊(ごうん)である 色受相行識 については 「般若心経って何ですか!」(1)で解説しましたのでご覧ください。

眼耳鼻舌身意つまり、人の躰の全ての感覚(六根・ろっこん))と、その対象となる 色声香味触法 (六根により生じる事)六境(ろっきょう)と、 六根が六境を認識する眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識  すべてをあわせて  十八界(じゅうはちかい) と言います。

 

無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽(むげんかい ないしむいしきかい むむみょうやく むむみょうじん)

そして、 眼界・意識界を表す 十八界(じゅうはちかい) そのものがもともと ”無” であると説いています。

― ってことはつまり、?何も無いことがある・・の意味がもひとつ

無明 (むみょう)とは、明(みょう:仏の智慧)が無いことですが、本来の象(かたち)はこの無明さえなく、それがまた尽きることも無い。 

私たちが当たり前に感じ認識している物・事は、その本質とは全く違うもので、色であると想う自分すら本来無いものが、 ”空” の訳だから、悟りやそこに向かう意識すら無いと云うことですか・・。

乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得  以無所得故 (ないしむろうし やくむろうしじん むくしゅうめつどう むちやくむとく  いむしょとくこ )

煩悩による自我に生き、やがて老いて死することの苦しみもまた元々は無である事。 そして 苦しみも、その原因も、苦しみのなくなることも、苦しみを離れる方法 (苦集滅道) も本来はない、いう意味だそうです。

「苦集滅道」は、原始仏教の根本の教えであり「四諦(したい)」といいます。それは、次の四つから成り立っているといわれます。

 

(1) 苦諦 (くたい)そもそも人生は苦であるという真理
人生が思うようにいかないのは、次の八つの道理による。
  :人は生まれながら、苦を生み出す要因を宿しているという苦しみ。
  :生まれたものは必ず老いていくという苦しみ。
  :生あるものは病むことから逃れられない苦しみ。 
  :命あるものは必ず死ぬ苦しみ。
  愛別離苦(あいべつりく):愛する人との別れは必ずくるという苦しみ。
  怨憎会苦(おんぞうえく):怨み憎みあう者同士がいる苦しみ。
  求不得苦(ぐふとっく):欲するものが得られない苦しみ。
  五陰盛苦(ごうんじょうく):元々体と心に苦の要因を抱えていること。    以上の生老病死の四苦(しく)と、そのあとの四苦を合わせて四苦八苦(しくはく)という。

― なるほど、それで煩悩が百八つあるといわれるのか~!   

  え? なんで?  

-しく三十六、はっく七十二  で、合わせて 百八つ!  (駄洒落か!)

気を取り直して・・・

(2) 集諦( じつたい)苦悩の原因は自己の所有するものへの執着、所有したいとする欲が苦悩の原因となる。

(3) 滅諦( めつたい)苦悩の原因である煩悩が完全になくなり仏教の目指す理想境は涅槃にあるという真理。

(4) 道諦 (どうたい)涅槃に到達するため、煩悩を滅却するには八つの正しい道「八正道(はっしょうどう)」を実践することが必要であると示しています。

  • 正見(正しいものの見方を培う)
  • 正思(正しいものの考え方を培う)
  • 正語(嘘をいわず正直に話す)
  • 正業(正しい行いをする)
  • 正命(正しい生活をする)
  • 正精進(正しい努力をする)
  • 正念(正しい意識、目標をもつ)
  • 正定(心を正しく保つ)

そしてこのように続きます、

無苦集滅道 無智亦無得 ・・これは、仏の智慧も無ければ悟りも無いしたがって八正道も無い・・となります。

つまりは、仏の示す「涅槃」に至っては結局のところ な~んにも無いのだよ!・・と言っています。

ややこしいのは、この「 な~んにも無い」 ”空”とは、何にもない”無”こそがある訳で、無い訳ではないと云うことです。

「空」(くう)の原語の意味は、すべてに無執着 ということであり、涅槃に至る「空」とは、この無執着であらねばならないという事への執着すら持ってはならないと云うことです。

―え~! 人間やめろってか? 

 まあ、そうじゃないけど・・、色(しき)を全否定する事で「空」を理解しようとする教えではあるけれど、そういった方便に執着するのではなく物事にこだわらず色(しき)を全うして「空」を知ることもありだとか・・・。

―わかったような、わからないような・・・。

因みに、古神道である竹内文書にも ”無” は ”不在” ではなく、”無という存在”であるとされています。

人が涅槃に至るまでの道として、大切な仏の智慧や方便に従いその数々の教えを実践しなければならない。しかし、涅槃に至ってはこの教えすらも必要ではないと説いています。

― 一番ややこしいところが終り、ここから先は比較的理解しやすくなってきました。

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故(ぼだいさつた えはんにゃはらみったこ)

心無罣礙 無罣礙故 (しんむけいげ むけいげこ)

菩提薩埵 (ぼさつさま)は、 六波羅蜜(ろくはらみつ)を修め 仏の最高の教え( 般若波羅蜜多)によるがゆえに、心を囚われることがない、ゆえにすべての迷いがない状態である。 罣礙 (けいげ)というのは、 罣(網:あみ)礙 (障り:さわり)のことで、物事に囚われ身動きの取れないことを表します。

六波羅蜜(ろくはらみつ)とは、 布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧  の六つの幸福になるための条件と言われています。

 

知識や教えなどの法施
明るく優しい顔で接する眼施顔施
温かい言葉をかける言施
恐怖心を取り除き穏やかな心を与える無畏施
何かをお手伝いする身施
善い行いをほめる心施
場所を提供する座施舍施、など

無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 ( むうくふ おんりいっさいてんどうむそう  くうぎょうねはん )

そして、心に迷いや囚われがないゆえに 恐れも無く( 無有恐怖 )いっさいの顛倒夢想 (錯覚や間違った想いなど)から遠く離れていることで、 究竟涅槃涅槃の境地(彼岸)に到達している。

三世諸仏 依般若波羅蜜多故(さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ)

三世とは、過去・現在・未来の永遠の時を現わし、諸仏はあらゆる場所にいる幾多の仏の事です。

つまり、般若波羅蜜多によるがゆえに あらゆる世界の全ての仏は 永遠に存在している。

得阿耨多羅三藐三菩提 (とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)

この読みも文字のひとつひとつに意味を持つ訳ではなく、サンスクリット語のアヌッタラー・サムヤク・サンボーディ(anuttarā samyak-sabodhi)の音写となっています。

アヌッタラー(無上の)・サムヤク(正しい、完全な)・サンボーディ(悟り)と訳されます。

諸々の仏の仏たる所以である、正しい完全なる悟りの智慧(ちえ)のことです。無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうがく)、無上正真道( むじょう しょうしんどう)、無上正遍知( むじょう しょうへんち)と訳され、仏、縁覚(えんがく)、声聞(しょうもん)がそれぞれ得る悟りの智慧のなかで、仏のそれ(菩提・ぼだい)は、このうえない究極のものを示していると云う事ですね。

「音写 」とは、 語音を他の言語の文字を用いて書きうつすことで、同じ音の漢字をあてたものです。従って漢字の持つ意味をひとつひとつ考える必要はありません。

故知般若波羅蜜多 (こちはんにゃはらみた)

般若波羅蜜多 を理解しおさめるがゆえに・・・それは

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
(ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ)

これら大神呪は、多いなる神(仏)の呪文(である。 ここで呪と書かれているのは一般的に考えられている意味ではなく、神仏の言葉・・つまり ご真言 (マントラ) の事です。

是大明呪は、神仏の偉大なる智慧の言葉・・ご真言ですね。

是無上呪は、この上なき最高のご真言である。

是無等等呪 は、谷同じものがない、比較できるものがない唯一無二のご真言である。

個々で四つの表現でご真言を表していますね。 これがさいごの言葉を表しています。

能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
(のうじょいっさいく しんじつふこ こせつはんにゃはらみったしゅ)

能除一切苦は、私たちの一切の苦しみを取り除いてくれるもの

真実不虚、 そしてそれこそが真実であり無意味なものではない。

故説般若波羅蜜多呪 、

即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦  菩提薩婆訶 般若心経
(そくせつしゅわっ ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい  ぼじそわか はんにゃしんぎょう )

これは、サンスクリット語の呪文(真理を表すマントラ)ですから、無理に翻訳する必要はないと考えられています。(ガーテー  ガー テー ハーラ ギャー テー ハーラソー ガー テー ボーディ スヴァーハー ハンニャシンキョウ)この言葉を唱えること自体が大切だと言われています。

 

これは、言霊というもので、「音」そのものに力(ちから)またはエネルギーが宿っていると考えるとわかりやすいですね。

般若心経における、最重要部分であると言えます。

敢えて訳すならば、 「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸にまったく往ける者よ、共に行こう」  などと訳されることが多いと思います。

教えを濃縮した言葉として、どういう事かを考えてみましょう。 以下は、真言宗の僧侶の言葉をまとめてみたものです。

まず初めの 羯諦 :これは、声聞の悟りを表しているそうです。教えに耳を傾ける真摯な心ですね。 

次の 羯諦 :これは、縁覚の悟りを表しているそうです。聞き感じたことを実行することだそうです。

そして波羅羯諦:これは、自身の羯諦 にとどまらず、菩薩の境地を目指し、悟りに目覚めるための行い・修行と言えますね。

最後の波羅僧羯諦 :秩序と調和を以て得る悟りの事で、 三宝が整っている状態こそが真の悟りへと通じるものだということです。

三宝とは、仏教における「仏・法・僧」と呼ばれる3つの宝物を指し、仏陀と法と僧のことです。僧とは、僧侶のみならず仏法を目指す者すべての人たちの事です。

  菩提薩婆訶

それらすべての調和がとれていることこそが、「菩薩の境地が成就する世界」だと解釈できるというものです。

ここまで、般若心経について考えてきました。

 

では、最初の課題・タイトルにあったように、正体不明の恐怖に遭遇した場合にはどうしたらよいのかということについて。

 

これは、悪霊を消滅させるようなスーパー呪文でも魔法の言葉でもなさそうです。

―えー! 役に立たないのかい!  などと思うのは早計ではないでしょうか。

恐れに囚われ心を乱すことで悪障を招くことが最も恐ろしい訳ですから、この般若心経によって自身の心の在り方を整え弱さを抑えることで、「心に隙を創らず強い心持を以て悪障を撥ね退けるもの」だと考えてみてはどうでしょうか。

肉体を持つ者にも持たざる者に対しても、「本来最も大切な教え」であると説かれているわけですから。

  

カテゴリー:古史古伝から学ぶ、真・日本古代史!

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