古文書に見る日本の歴史! ⑷ 竹内文書は本当に偽書なのか? 出雲族と大和族と原日本人! 古代日本を支配していた天孫族。出雲族と日向族の戦い、そしてそれ以前からその地の住んでいた原日本民族の旧ヤマト族! その最終結果が、統一王朝のヤマトのクニであった。!
天孫降臨後日本を統治していた「天皇族(すめるぞく)」が、太陽信仰の下日本列島で文明を築いていた。(天地開闢、天孫降臨のページを参照してください)
三貴子は、三氏族へと繋がる。
伊邪那岐神(イザナギの神)が筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原にて、黄泉の国の穢れを祓った時に生まれた三柱の神を「三貴子」と言います。
一般的な神話としては、黄泉の国から戻った伊弉諾尊が身を清めた際に、左目から、天照大御神 右目から、月夜見命 鼻からは、須佐之男命 と語られています。
別書では、伊弉諾尊が左の手に白銅鏡を取り持って大日孁尊(天照大神)を生み、右の手に白銅鏡を取り持って月弓尊(月読命)を生んでいる・・とも記されています。
その真偽はともかく、この三柱の神もまた、天津神、地上に降りた国津神、そして人租として神官となりその名は各部族で世襲されていきます。
天照大御神は、高天原の統治を、 月夜見命夜之食国(よるのおすくに)の統治を、 須佐之男命 は海原の統治を それぞれイザナギの神より託されます。
三貴神の個々の物語や出来事については、古事記で語られている内容と竹内文書(帝皇日嗣)と大筋では同じとなっていますが、国津神・人神へと続くにつれそれらの解釈や補足などが正統竹内家の口伝にはあるようです。(断片的にしか語っていません)
この三貴子とは、一体何を意味しているのでしょうか。
日本には古来、「日・月・星(にちげつしょう)」という3要素があり、三種の神器や三貴子などもこれに当てはまるとされています。
ちなみに、三種の神器で言えば「八咫鏡(日)、八尺瓊勾玉(月)、草薙剣(星)」であり、三貴子で言えば「アマテラス(日)、ツクヨミ(月)、スサノオ(星)」に当たるとされています。
これを伊勢・志摩の神宮に当てはめると、内宮では「日(太陽)を象徴する天照大神」、外宮では「月を象徴する豊受大神(真名井神社では月神とする伝承がある※)」となりますが、伊雑宮(いざわのみや)ではスサノオは祀られていません。
竹内家口伝・帝皇日嗣によると、これは「三つの氏族」だとされています。
やがて人へとその名が継承されていき、天照大御神は太陽の神官として、 月夜見命は月の神官として、 須佐之男命は海の神官として各々の支族を統治することとなり、日本を離れ大陸(世界)へと旅立つこととなります。
太陽紋でその一族を示すこの紋章は、「十六弁菊花紋」であり天皇家の紋章です。 十六弁とは、日本から十六方向へ各氏族が旅立っていったことを表していると言われます。
日本で太陽信仰を持った氏族が、陽の沈むかなたに理想郷をつくることを目的として世界中に拡散することになったわけです。
アマテラス率いる一族は、朝鮮半島に渡りインドを経てパミール高原あたりを目指した。当然途中で現地人と共にそこに定住する者たちもいたのだろう。
スサノオ率いる一族は、海を目指しインドネシア・マレーシアを経由メソポタミアあたりに行き着いた。
日本には帰らなかったツキヨミの一族
月夜見は、古事記では多くを語られていない。竹内氏によると、ツキヨミは罪を犯し日本を追放されていたとの事です。
日本書紀に出てくるウケモチノ神(食物の神)の命を奪ったとして、アマテラスの怒りを買い絶縁状態となり以降昼と夜が分かれたとなっています。
ツキヨミとは、月夜見 (満月:夜を治める)、月読(新月:暦の神・月読歴)、月弓(三日月:軍事力)と三柱の神をを表し、ツキヨミ一族もいくつかの支族へと分かれていたとされています。
このツキヨミは、アマテラスにより日本を追放されユーラシア大陸へと渡り、今の中国・モンゴル辺りに月氏国をつくる。
その子孫はインド方面へと拡がっていき大月氏国(クシャーナ朝)をつくる。その何代か後の子孫には釈迦がいる。
弓月国と月氏国の氏族たちは、徐福と秦氏の祖となっている。
何故、再び日本の地を目指したのか。
新天地を求めて旅立った各氏族は、皇(スメル)族の名を冠したシュメール文明を築きながら、なぜそれらを捨て日本を目指したのだろうか。
シュメール文明を築いた後、シュメール人達は本来の信仰である自然と共に生きる太陽信仰がこの地では果たせないことに気づいた。
自然と共に生きる太陽信仰が根付いていながらも、メソポタミアにおいてはこれら古神道の理念や信仰が厳しい環境や砂漠の風土にはなじまなかったのだろう。
竹内氏は、次のように語っていました。
「何故なら、豊かな自然の恵みと火山による地殻エネルギーの豊かな日本列島と違い、多くの都市国家がつくられ多くの民族が生きるメソポタミアの地では環境に適応して生きてゆくことが極めて厳しく、自然や人間そのものを克服・征服し生きていく事が必要となってくる。 必然的に人々は相争い恒久的平和を維持することが困難であった、それはやがて失望へと繋がり祖先の地への回帰を余儀なくされたのだろう。」
一部のシュメール人たちは、それぞれの祖先(天孫族)より受け継ぎ語り継がれてきた祖国日本を目指して、再び長い旅に出ることとなった。そして日本の地で合流して再び平和な統一国家を築くとの約束を交わしたのであろう。
東を目指す者たちの他一部は、イスラエルに向かい後のユダヤ人の祖先となっている。
竹内睦奏氏は、「シュメール人が歴史から姿を消したのが紀元前二千年頃とされているが、日向族と出雲族が日本にたどり着いたのが紀元前4~5世紀頃で、この千五百年余りの事は口伝でもわからない」と語っていました。
日本に戻った両氏族は、ここで一つの問題が生じてくる。
日向族(後の大和族)と出雲族は、それぞれ行き着いた日本の地方で勢力を広げてゆく、しかし日本列島には居残り組としてそれまで平和に暮らしてきた土着民である原日本人がいた。
彼ら原日本人たちは狩猟と農耕で暮らしを立てていたが、極めて温厚で争いごとを好まず平和を享受していた。
そこへ現れた大陸からの渡来民族(帰還者でもある)は、理想郷を求めてやってきたもののやはり「ちから」によって自分たちの主張を通すと言う民族性を持っている。抵抗する間もなく、九州・四国・西日本はこの二つの勢力によって支配されてゆくことになる。
原日本人王朝(民族)は、徐々に東へと追いやられていったり全国に散々になり隠れすむようになったものなどが竹内家の口伝には残されているようだ。
当然のことながら、出雲族と日向族も権力争いが起き、「十種神宝」を巡り何度か衝突することになる。
「十種神宝」 とは、出雲族が保持していた「皇位継承の証」で、日向族はそれを一人締めしたかったのだろう。
出雲族と日向(統一後の大和)族
日向族(ひむかぞく)
シュメールにおいて、天津神アマテラスを継承し信仰や祭祀を執り行うグループで、呪術に長けていたとされる。
朝鮮半島経由で日本に到着後、九州の日向の地を拠点とし隼人族やくまそを征服、四国・近畿の現日本人を次々と征服していった。
竹内氏によると、大和の国(やまとのくに)は、「邪馬台国(やまたいのくに)及び卑弥呼」の正しい呼び方、ヒミコとは、日(太陽)の巫女でありアマテラスの継承名であると言う。
(因みに、「邪馬台国」「卑弥呼」という漢字があてられていたのは、魏の国目線からみたヤマトの国と祭祀王ヒミコに対する蔑称であり、日本を格下であるという前提で見られていました。
当然本来の、ヤマト国・日ノ巫女(ひのみこ)としての呼び方、倭国(ヤマトのクニ)・ヒミコ(文字ではなく読み方そのもの)と呼ぶのが正しい。)
日向族は、後の民族統合(出雲の国譲り・旧ヤマト国:現在になら辺りを拠点としていた民族など)により大和族(の国)と名乗り、それぞれの文化や秘術などを吸収していった。 出雲族が持っていた「十種神宝(とくさのしんぽう)」を受け取った(奪った?)
大和族の子孫・武内宿禰は、出雲族から「八雲叢雲十種神宝」の行法を奪ったので今でも正統竹内家には、この行法がつたわっているそうです。
大和の国とは、他民族との和を抱え尊ぶ国ですべての民族を束ねる(大きな和)と言う意味であるという。(他民族とは、渡来者を含め世界諸々の部族すべてを指す)
出雲族
シュメール人がつくった中で最大の都市スサの王(スサノオ)直轄のグループで、政治や軍事を司っていたとされる。
武力・戦争に長けており、海洋ルートを辿り、島根(出雲)に定着し出雲族と呼ばれるようになった後京都丹波までを支配していった。
島根の出雲と京都の出雲
浦島太郎は、京都出雲の人間で本名は「水江浦島子(みずのえうらしまこ)」という。
島根の出雲の巫女が、丹波の出雲の人間に辱められたが、浦島だけはその出雲の巫女を助け故郷へと連れて帰った。
浦島は島根の出雲で歓待を受けその巫女と結婚しそこで暮らすこととなったが、長い年月の後、浦島は丹波の出雲(故郷)へ戻ってみると一族は滅び誰もいなくなっていた。
じつは巫女を辱められた島根の出雲に滅ぼされていた・・・というのが、浦島太郎伝説の元だと竹内氏は語っている。
何度目かの戦争にて、大和族に従属することになる。
アマテラスとスサノオの誓約(うけい))といわれる、いわば政略結婚にて、一時的に和平状態にはなったが、大国主命が出雲の王を継承していた時代、その息子(事代主)によってヤマトの国( 葦原中津国 :日向族の天津神が支配する州(クニ))に併合されることとなった。いわゆる国譲りの話だ。
原日本人民族とは、
原日本人民族とは、東北王朝、富士王朝、飛騨王朝、九州・隼人族、琉球王朝、蝦夷(アイヌ民族)、サンカ(山窩)民族 など、日本国内から離れることなく地方国家や地方民族となった人々の総称である。
これら原日本人民族は、やがて出雲族や日向族により征服されて併合されていくこととなりました。
サンカとは、
征服された原日本人の中には、大和・出雲どちらにも従せず日本各地を定住することなく転々とする流浪の民となった者たちがいるそれが「サンカ」だという。
隠れるように暮らしているサンカ民族は、敢えて文字や言葉を残さず秘密のベールに包まれているのも、史実を忠実に後世へと伝承するため外部との接触を断ち独自の通信手段で互いに連絡を取り合いながら情報を共有していたともいわれている。
竹内文書同様、それぞれの王朝の子孫や家系によって当時の歴史が記録され秘密裏に継承されていた文書があったが、竹内文書同様に現在では偽書扱いとなっている。(現在の日本に深く浸透し、日本の神の歴史を隠し抹消したい勢力によって現在の歴史教育は歪められていると、竹内睦奏氏は語っていた。)
出雲族と大和族の「誓約」
九州の日向を中心に栄えていった日向族と出雲地方に到達し栄えていった出雲族は、それぞれの文明で築いてきた「ちから」で現日本人を圧倒していた。
太陽信仰による自然崇拝と農耕で暮らしていた戦争を知らない平和な原日本人は、簡単に征服されてしまったのだろう。
「八雲叢雲十種神宝(やくもむらくもとくさのかんだから)」である秘術や行法を巡り対立することとなった大和族と出雲族であるが、当初武力で上回っていた出雲族が優勢となり大和族は苦戦を強いられていた。
そこで、大和族は和議を申し立てた。大和族の王の娘の巫女が出雲族の王の元に嫁ぎ政略結婚となった、これがアマテラスとスサノオの誓約(うけい)だと竹内氏は語っている。
神話では、母イザナミに会いたいと黄泉の国行きのお伺いを立てるためにアマテラスの元を訪ね、互いに儀式を交わしたことになっているが、これは後の大和側王朝が都合よく記録を書きかえたものだと云うことです。武力で勝るスサノオを乱暴者と書きかえていることが、当時の力関係を如実に物語っている。
和合し一旦は収まったかに見えたが、大和族の不満は大きく紛争は激化していく、やがてその内にある呪術集団のちからにより徐々に出雲族を抑え込み駆逐していった。
東へと追いやられ諏訪から東北へ、そして蝦夷地へと追いやられてしまった。
出雲の国は大国主命が須佐之男命の娘(スセリヒメ)と結婚し出雲の王となったが、その息子であり実質的に治世をしていた事代主(ことしろぬし)の時代に最終戦争が起き大和族に(実際は、大和のイザナギにより説得される形で) 完全制圧されてしまう。 これがいわゆる「国譲り」の話であると言います。
時の大和族の王・神武(サノ彦)は、出雲の娘を娶り(皇位継承権をすべて手中に収め)大和朝廷を確立する。 これが紀元五十年頃の話だと竹内氏は語っています。
初代天皇は誰なのか。
須佐之男命の娘須瀬里姫は大国主命と結婚した、一方息子であるニギハヤヒ(後の物部氏の先祖)は、正統竹内文書による名称では「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(アマテラスクニテラスヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)」であるとされている。
アマテラスが男神か女神かの議論をよく耳にするが、前述のように「アマテラス」は称号であり祭祀を行う巫女であり又祭祀王であるため、どちらも存在する。
アマテラス(大和族の王の娘巫女)とスサノオ(出雲の王)の誓約つまり婚姻により、アマテラスの称号が息子であるニギハヤヒに引き継がれたものだと言います。
そうなると、統一王朝として初代のアマテラスの称号を持ったニギハヤヒが初代天皇ということになる。 しかし、それでは大和族の面子が立たず出雲を完全に駆逐した大和の神武がニギハヤヒの称号を奪い取り初代天皇となったのである。
「このあたりも大和朝廷による歴史の改竄ということになるのかもしれない、ニギハヤヒとオオトシ(大年神)とアメノホアカリは同一人物で、名前を分け別人のように記述している。」
「ニギハヤヒはスサノオの息子で大物主でもあった、(大物主も世襲名)このあたりも大和族による改竄で大物主の名も三つに分けられてしまった。」
「そして、大年神は出雲の祖先、アメノホアカリは大和族の祖先としその正統性を捏造した。 ニギハヤヒを分けることでそれを隠してしまった、竹内文書は改竄される前の歴史を残しているのです。」
と竹内氏は語っている。
もともとアマテラスの称号(祭祀巫女又は祭祀王の称号)を持っていた大和族は、最初の和睦(誓約)で出雲川に渡ってしまった、つまり神話でいうところの スサノオの乱暴狼藉によりアマテラスが怒って岩戸に隠れ世界が真っ暗になった事件を表している。 此の描写も大和側の言い方で都合よく書かれているという。
大和側の祭祀たちは、出雲と対等ではなくより高い「天孫族」つまり天津神の子孫であり、出雲族は土着の神(国津神)であると考えていた。
天津神(天界の神)のイザナギが地上に降り、禊の時に生まれた地上の神々(国津神)の子孫が出雲であると・・。
三貴子のアマテラスは、もともと天界の陽の神天照(アマテル)の継承であるため、天津神の最上段に置かれている。(ツキヨミも、天界の神の継承で暦を司っていた)
ホツマツタヱでも、長子アマテル(男神)として書かれている。
なぜスサノオが三貴子に入っているのか。
誓約(うけい)によってアマテラスの夫となったスサノオを格下の神に置くわけにはいかないため、大和お得意の改竄によりイザナギからうまれた 姉と弟 とし対等に扱ったと云うことらしい。
なお、スサノオはイザナミの神が最後に産んだ火の神の御魂(荒魂)を宿しているともいわれているが、その関係性の詳細はここでは省略します。
対等ではあるが、名前を見てみるとその違いは歴然としている。
「天照大御神:あまてらすおおみかみ」
「須佐之男命:すさのおのみこと」
本来天津神より生まれたとされるアマテラスには、大御神(おおみかみ)とつけられているが、スサノオは命(ミコト)となっている。 ミコトとは、国津神の名称に使われる呼称である。
裏王朝が残した歴史記録
竹内文書(帝皇日嗣)は、征服された出雲族や原日本の各王朝の文化を吸収し統一した「大和王朝」の子孫が残した裏の歴史書(神皇記)であると言う。
一般的な歴史概念を離れ、それを念頭におきながら読み進めていく必要がある。
古事記日本書紀に至っては天武朝の時代に編纂されたもので、時の王朝の都合に合わせて改竄された歴史記録に基づいていると竹内睦奏氏は語っているが、編纂に関わった「平群の子首(へぐりのこびと)」・二十三世武内宿禰は、古代よりの史実を知る口伝者が見ればどのような歴史がそこに隠されているかわかるように、暗号やヒントを至る所に散りばめているとされています。
古事記の本当の意味を理解するためには、正統竹内家の口伝が欠かせないと竹内氏も語っています。
第七十三世武内宿禰(たけのうちのすくね)である竹内睦奏氏自身の著書や講演などで古事記について多くを語ってはいるが、微妙に内容を変えている。
それは本来秘密の口頭伝承のみで継承されていたもので、門外不出とされてきたいわゆる一子相伝・武内宿禰を継承した者のみが引き継ぐものだからです。
改竄されないよう、いくつかの家系に内容ごとに分類・分散しそれぞれが秘密裏に伝承された歴史記録を、武内宿禰がまとめて記憶し後世に伝えると言います。
全てを知っているのは、武内宿禰のみということです。
それを、(長老会と相談しながら)一般的に知られている古事記や日本書紀を基に口伝の内容を少しづつ散りばめながら公表している訳で、すべてを明かにしているわけではないのです。
氏の講演を聞いていると、おそらく肝心な部分は語っていない又は若干表現を変えていたりしているように感じます。(明らかに内容を変えている場面があり、暗に異なる内容であるとにおわせている。)
日本を統一した大和朝廷は、それまでの歴史とそれ以降の歴史を都合のいいように書きかえているといい、その改竄されていない裏の歴史を極秘裏に口伝というかたちで後世に残そうとした存在があり、後に竹内宿禰へと引き継がれていったとの事です。
宮下文書や九鬼文書、ホツマツタヱなどはそれらが文書化(神代文字)され、人目に付かぬように隠されてきました。
以上のように、改竄の事実も正統竹内家の口伝には残されているといいます。
大和朝廷の子孫であり南朝方の武内宿禰自身が、出雲族や原日本人から秘儀や記録・行法に至るまで奪い、吸収していたことを潔く認めている点も、その信ぴょう性を物語るものではないでしょうか。
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