神代文字(じんだいもじ又はかみよもじ)とは、漢字伝来以前に古代日本で使われたとされる多様な文字・文様の総称であり、 神代(かみよ)から伝えられたとされる。それは、日本各地に数十種類存在していたとされる。
神代文字の有無は江戸時代国学者間の研究問題でもあり、平田篤胤は「神字日文伝」を著わしてその存在を主張した。当時からその信ぴょう性については多くの議論が重ねられている。
実は、縄文土器の文様も神代文字の一種だった。
竹内文献によると、縄文土器に描かれている紋様は単なるデザインではなく 文字・記号であり何らかの記録を表していると伝えている。(竹内睦奏氏)
縄文土器の紋様は「ループ文字」(縄文字)だった。
これも竹内文献からだが、縄文土器にあらわされている縄目模様は「ループ文字」であり、そのパターンにより特定の事柄を表現しており、一種のカレンダーや目次のような使われ方をしていたという。
宇宙の三原則 「同期」「対称性」「同質結集」をあの縄目によって表現しているというのである。(実は、注連縄もこの3原則と、そしてカタカムナウタヒのように渦巻き構造を表したものといわれている)
この宇宙の三原則は、カタカムナウタヒを理解するうえで非常に重要な意味を持っている。量子力学と相通じるところがたくさんあると云うことをご存知の方も多いと思う。
アメリカの先住民である、ネイティブアメリカン(アメリカン・インディアン)「ホピ族」も同じように縄目で記録していたと言われています。
また、アイルランドの古代巨石に刻まれている紋様や文字は、紀元前3200年ころに建造されたと思われる 「羨道噴」(せんどうふん)から見つかっている。
幾重にも重なる同心円、螺旋、菱形、波型などが彫り込まれている。これもただの模様などではないと考えられる。
フランスのブルターニュにあるカヴリン島の「羨道噴」スコットランドのオークニー諸島からも、約5000年前のものと思われる居住跡や”鷲の墓”から出土した使途不明の石の道具などにも同様の紋様がみられる。
とうじの人たちは一体何を残そうとしていたのだろうか、偶然の一致と考えるにはいささか無理があろう。
そして、縄文期以前より使われていたとされる文字が「神文字」として、100種類を超える多くの文字が存在していたと言われている。(当然、学会には認められていない)
阿比留文字(阿比留草文字)、豊国文字、伊予文字、秀真文字(ほつまもじ)、ヲシテ文字 などであるが、これらは一般的には偽作又は不明とされており一部の学者とアマチュア研究家の間でのみ扱われている。
そもそもなぜ認められていないのか・・実はその論理的根拠自体も明確ではない。
現在では、中国より漢字が入ってきた後その「かな」としてひらがなが考案され、それが変形したものがカタカナであるとの主張が一般的だろう。
漢字は、6世紀初頭に伝来した仏教によりその経典の文字として使われており、当初僧侶や知識人たちが好んで使い始めた訳だが、当然音読みしかなかった。
それを日本語の表す意味に合わせて漢字をあてがい、それを繋げて日本語読みをしたものが訓読みで、その文章の送り仮名としてひらがなを当てて読みやすくしていった・・ということだが、無理がありそうな解釈だ。この説明では何となく違和感を感じる人は多いだろう。
いきなり漢字を使い始め、音読みや訓読みをしながら書き記すなんて導入の仕方が不自然だ、こにはやはり何らかの基本形となるものがあったと考える方が自然であると思う。
内容と結論は後述するが、漢字はいわゆる逆輸入されたものだったのです。
歴史学者や国語学者によると、神代文字の偽作説については・・書かれている内容があまりにSF的であり、従来の歴史考察とかけ離れている事や一部の学者による朝鮮の「諺文」(おんもん:ハングル)をまねて偽作したと主張されたり、確定的な証拠はなく独断と偏見により一方的な意見を世間に対し 結論として吹聴した結果と言ってもいいくらいだった。
また、本来母音が八音あったことは史実として確かなはずだが、神代文字は五つの母音で書かれている、これは平安時代の「いろは歌」を参考に考案したからだという説もある。
しかし、竹内文書では、しっかりと八十八音のの文字が残されている。
それらの古文書の記載については、学会は沈黙を通していると言い不自然な対応である。
否定論をまとめてみる。
・まずは否定論からスタートし、いくつもある神代文字の証拠については検証や研究の対象とせず無視し議論を進めない。
・阿比留文字などは、朝鮮の諺文(ハングル)と似ているという理由だけでそれを真似たものだと結論づけている。
・日本の歴史や伝統を過大に評価しようとした人たちによる偽作である。(論拠はない)
・古墳などに刻まれている古代文字については、何の検証もせず無視している。(目をそむけている)
神代文字の否定論としては、あまりに短絡的で確定的な根拠に乏しいと考える人は多い。
100種類を超える、神代文字
神代文字は、八十八種の音霊が持つ意味(心や感情、意思、理論)を形に表したもので、人と共鳴しやすいものだと言われています。
竹内睦奏氏によると、古代人は言葉による伝達よりもむしろ直接的に意思を伝えるいわばテレパシーのようなもので互いのコミュニケーションを図っていたようです。
文字を使うときは、主に記録を目的とした時に使っていたのでしょうか。
竹内文書においては、これらを 「神字」(カムナ)と言います。
良く知られているものをいくつか紹介します。
カタカムナ文字
縁と線や点などで一音一文字のものもあれば二音三音を一文字で表すものもある、良く知られているのが「カタカムナ」文字である。
カタカムナウタヒについては、その解説を順次投稿しているので参照してください。
豊国文字
豊国文字(とよくにもじ)は、『上記』(うえつふみ)に使われている文字で、 古体象字と新体象字がある。
ヲシテ文字
『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』『カクのミハタ(フトマニなど)』 などの3文献を「ヲシテ文献」 といい、それらを記述している文字である。ホツマ文字とも呼ばれていた。
阿比留文字
対馬国の卜部氏・阿比留氏に伝わったといわれる文字で 、 阿比留家の文書には、阿比留草文字や対馬文字と共にこの文字も使われていた。
阿比留草文字
参考:ハングル文字とは・・。1446年李氏朝鮮第4王国の世宗によって交付された文字とされている。この頃まで自民族言語としての文字を持たなかった朝鮮はそれまでは一部の知識層のみが漢字を使用していた。(中国の漢字を使うことが上等民族だという考え方)支配階層と奴卑の歴史は長かった。(wikipedia)
もっと文字を一般化させようと、古代対馬の阿比留一族が使用していた文字を参考に覚えやすい記号を考案したが、思うように国民には受け入れられず定着しなかった。当時の識字率は4パーセントほどしかなく、日韓併合時代に、国家としての体裁を持たせる意味で、日本がハングル文字を教育・普及させ識字率60パーセントにまでなった。その他、莫大な資金を投入してインフラ整備にも着手していたことは周知の事実である。
日本が古来より持っていた古代文字「カナ」(カタカナではない)は、神倭(かむやまと)以前、上古代時代の民族大移動(古文書に見る日本の歴史! ⑴ 竹内文書は本当に偽書なのか?)によってシュメールに渡りその後西アジアからヨーロッパへの民族拡散と共に世界各地へと伝搬・変遷していった。
そのうちのいくつかの民族は再び日本へと帰化(失われた十支族のうちの一部)しその名残を多く残している為、ユダヤとの共通点が多いのもうなずけることだろう。 また、象形文字や表音文字のようなものが神代文字の中に多く見られるのもそのためだ。
帰化した民族が持ち込んだ古代文字と元の文字などが混在しているため、神代文字の種類もやたらと多いのかもしれない。
超大陸時代の民族拡散や後の超大陸の分断後の日本列島と世界の大陸分布に関して、竹内文書では「内八洲、外八洲観」(うちやしま そとやしまかん)と言われる考え方がある。これについては、「古文書に見る日本の歴史! ⑴ 竹内文書は本当に偽書なのか?」の続編にて紹介していきます。(日本列島は世界5大陸の縮図である)
竹内文献に記されている「神文字」(神文字、カムナ)
竹内宿禰が口伝伝承を基本とし伝えた文字の中に、南朝方天皇家に伝わるカムナがある。
これは南北朝時代をさらに遡った、神代の時代古代天皇家の文字とされている。
上記写真の文字は八十八音のうちの五十音で、あとは秘伝とされているため私たちが目にすることはできない。
神代文字について、竹内睦奏氏の談話を紹介します。
「正統竹内文書の日本史「超」アンダーグラウンド」より 抜粋。
(談)最古の神代文字は、数万年前の超大陸パンゲアの時代に「最雲文笹雲文字」(さいうんもんざさくももじ)というものが使われていました。
これを変化させたものが、約1万年前の「アメノマガタマ文字」ということです。これが2系統に分かれて、大伴氏系の「ミチツオミ文字」と 中臣氏系の「アマツコヤネ文字」。
アメノマガタマ文字は、忌部氏系の「アメノフトタマ文字」と言われるようになり、笹雲文字と勾玉文字は、極秘の一子相伝として代々竹内宿禰に引き継がれている。
アメノマガタマ文字は、大別すると「大和族」「出雲族」「ユダヤ族」(日本人の祖先でもある3大種族)が使用していたが、そもそも本来は日本の現住民族である「サンカ」が使用していたものです。
(サンカは、昭和前期まで存在していた人たちで、独特な伝統と文化を確実に継承し自然と共に生きることを絶対的信条とし守るため、外部との接触は生活に必要な物資を手に入れるとき(手作り品と物々交換していた)のみで、その実態を明かすことがなかった。そのため一般的な人々からは警戒され恐れられ、差別されながら様々な話が勝手に作られていった。)
神代文字は数多くあるが、代表的なものは ”阿比留文字”と”阿比留草文字” 次に”忌部文字”と”アコシネ文字”、そして”豊国文字”が誕生、その後ひらがな・カタカナとなる。・・・
実際、「日本書紀」の欽明天皇条に、「他に古字あり」という一句がある。天武朝においては、新しい字を作らせた、となっている。
日本書紀の中にも神代文字の存在をうかがわせる記述があった。
その中で一番使われていたのは、阿比留草文字だろう。古代の神符(護符)の中に書かれていたのは文字で最も多いのが、阿比留草文字で次に阿比留文字であった。
蝦夷地で使われた文字は、「アイノ文字」といわれた。 また、「秀真伝」(ホツマツタヱ)のホツマ文字があるが、政党竹内文書には、少し形を変えて伝わっている。
また、阿比留文字の形態で 「アワ文字」という文字も伝わっている。「九鬼文書」では、「カスガ文字」という文字が使われている。これは何種類もあり、「正統九鬼文書」と言える「物部文書」には、物部文字が伝えられている。(談)
豊国文字やヲシテ文字などの古代文字のルーツは、謎の多いサンカ民族(日本の原住民)がひそかに使用していたサンカ文字だと竹内文書には記されているそうである。 まさに、民族の数だけ文字があったと言っても過言ではないようだ。
神代文字のルーツであるが、超古代縄文期ともいうべき頃、つまり古代倭(ヤマト)民族が大陸に分散してゆく以前から”原日本人”が使用しており、アイヌから東日本・西日本・四国や九州、琉球まで様々な原住民族が文明を築いていた為その種類は2000を超えていたとも言われている。
それらのうちのいくつかが、ユーラシア大陸や海洋航路経由でメソポタミアまで拡散変遷していく事になる。
旧約聖書にも書かれている「世界共通語」
旧約聖書の創成期にある、「バベルの塔」の記述です。
・石の替わりにレンガを、漆喰の替わりにアスファルトを用いて、彼らは天まで届く塔を建てた。・・・云々
トキの王が、神を崇めることを忘れ自らの力を誇示したため
神は、人間が互いに言葉が通じないようにした。
彼らは混乱し、世界に散っていった。
まあ、この通りの事があったのかどうかは不明だが、日本の地から大陸へ渡り拡散増殖し、多様な民族へと変化していった人間が、王の名の下に自分勝手な振る舞いをしていたと云うことは否定されるものではない。
結果、言葉も祖先の教えも忘れてしまったと云うこと、それと元々世界は一つであったことを示しているのではないだろうか。
ひとこと 古文書・神代神字辨
古文書の神代神字辨には、嘉永二年(1849年)、福岡県久留米市の「西福寺」にて神代の文字の講義が行われたとあります。
ペリーが浦賀に来る数年前で、そろそろ海外からの圧力が強まってきた頃で朝廷も危機感を募らせ始めたのです。
この講義録には、幾種類もあった「神代文字」の中でオシテ文字でかかれた神字「ヒフミヨイ」が最も古い文字であると書かれています。
また、「アカサタナ」を表す神字は、東密(真言密教)や台密(天台密教)にて秘蔵されたともあり、そしてこれら神字を知らなければ藤原鎌足の「伝神縁」や最澄の「穂妻文」を読むことはできないとも記されていました。
残念ながら、藤原鎌足の「伝神縁」や最澄の「穂妻文」などは神代文字で書かれていた可能性が高く多く、現存していれば大きな証拠となるのでしょうが、多くの戦火や江戸の大火で焼失しているようで、目にすることはできません。
これら以外にも、多くの古文書(古史古伝と呼ばれる資料)が焼失したり、特定の家系で秘蔵されていたりと、なかなか私たちが直接目にすることは叶いません。
正統竹内文書のように、ほんの一部でもいいので「秘密の国史」とされているものをそろそろ公にしてほしいものです。(現皇室についても国民に事実が知らされているとは限りません、敢えて秘密にしていることは山ほど有るでしょう。武内宿禰の極秘口伝のように・・・)
:カテゴリー( ドローン入門、無線技士資格、航空法・電波法解説 )
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真・古代日本史研究:カテゴリー(ホツマツタヱとあわのうた、正統竹内文書、カタカムナウタヒ)
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